Wednesday, April 15, 2009

身代わりの死

「イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。」    マルコによる福音書15章37~39節
 ユダヤ人指導者達は刑の執行を求め総督ピラトにイエスを引き渡し、ローマ法廷で裁く事は出来ない宗教的な論議に関心がないピラトに、イエスが王と名乗り皇帝の権力を脅かす存在であると訴えたのです(参ルカ23:1-2)。祭司長側の厳しい訴えにひるまず、ピラトは公正に弁明のチャンスを与えようと試み、祭の時に群衆の願う囚人を1人だけ赦免する慣例を利用し、赦免を要求してきた人々に、「イエスかバラバか」と問うたのです。それは、祭司長達が法的に無実のイエスを引き渡したのは、イエスの群衆からの人気をねたんでのことと察知していたからです。群衆がイエスの赦免を願うものと思っていたところが、予想に反して、祭司長たちの扇動を受けていた群衆はバラバの釈放を求めてしまったのです。
 人の知恵による特赦と神さまのご計画による罪の赦しの大きな違いは、その許しが何のためであるかを理解することによってはっきりとしてきます。ピラトは己の名誉と地位を守るためにイエスさまを許そうとしました。しかし神さまの赦しは、「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(ヨハネ15:16)どこまでもご自身の創造された人間を愛され、愛しつくされて、十字架のあがないを完成してくださったのです。主イエスは今も、永久まで生きておられます。