Wednesday, August 12, 2009

信仰と行いと

「あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた 』という聖書の言葉が成就し、そして、彼は『神の友』と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」ヤコブ2章22~24節
 信仰のない行いと行いのない信仰は、共に正しい評価が得られません。また、行いは行い、信仰は信仰といわれるのも無理があります。ヤコブ書の中で、信仰と行いが問われている事は、いかに初代教会の頃から「信仰と行いのかかわり」あるいは「信仰と行いのバランス」が取れているか気をつけていたと思われるのです。第一に考慮されなければならのは「信仰」です。はっきり「イエスをキリスト」と告白する信仰であるか、このことはどれほど丁寧にどれほど頻繁に聖書に照らして判断してもし過ぎるということはないのです。べレアの教会では「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。」(使徒行伝17章11節)というのです。ユダヤの民は自分達の神さまこそ真の神さまだといって、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とその神さまの名を伝えていましたが、実際に、アブラハムと神さまとの約束と実践、イサクと神さまの約束と実践、ヤコブと神さまの約束と実践を実行していたのでした。
私たちもまた、今日を主にあって生き抜くために、旧新両約66巻をくまなく学ぶ「お言葉に生きる信仰者」となってまいりましょう。