Tuesday, March 2, 2010

真理の柱、真理の基礎

神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。確かに偉大なのは、この信心の奥義である、「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」。         Iテモテ3章15-16節
 「教会生活」とは何を示す言葉でしょうか。教会の中でのルールや決め事ではありません。主イエス・キリストさまの御心にかなったクリスチャンの、日々の生活全てを意味するのです。信仰というとき、それはどんな信じ方とか何を信じているのかを問うているのではなく、私たち自身の生きる姿勢そのものを表わす言葉として使うように、教会生活という言葉は、16節に見られる信仰生活の中身を表わす言葉として用い、当然のこととして、私たち自身の信仰生活のうわべも中身も全て表現していく言葉なのです。従って、私たちの全ての言動が問われるのです。教会にいるときだけではなしに、普段の生活全般において、また各自の心の中の問題であったとしても、主なる神さまに見ていただくことなのです。主が御言葉によって示してくださる奥義を宝として持つ者にふさわしい生き方がなされているか自らの言行をチェックするものでありたいと思います。特に、「弱さ」に対して同情心をもっているか、痛みとして同感できるかという点について折々に自省の時を持ちたいものです。
「生ける」は、活ける教会であり、往ける(=ゴールを目指して邁進する)教会でなくてはなりません。主が私に「何をなすべき」と問うておられるか、ナウなタイム感覚で捕らえ、共に生きる一人ひとりであってほしいものです。