Monday, September 9, 2013

信仰によって

「しかし、神のみまえでは、できない。 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。」                  ローマ4章2~3節 
 「信仰によって・・・認められた」という表現を、新改訳聖書では「・・・と見なされた」と記しています。ローマ4章の記事は、創世記15:6と同じ表現で、神のご命令をそのまま言葉通りに実行したアブラハムの行いが、神さまを信じたことと評価して下さっているのです。「見なす」に同義の言葉として聖書には「…と数える」という語もあるのです。この「見なす」「数える」は共に、「count」という英語でKJVに表記されているのです。「見なす」という言葉は法律用語なのです。ですから、信仰による行いには義務と責任が伴います。軽々に信じました止めましたと言えることではなく、慎重に誠実に主の前に信仰告白すべきです。また、「イエスは私のキリストです」
という信仰を告白したクリスチャン達は、日常生活においても、キリストにある者であるとの自覚を持って生活する証し人であり続けたいものです。それが神さまの前に恵をいただいている者の、自発的な義務と言えるかもしれません。アブラハムが75歳の時に、神さまの側から一方的に語らえた「私に従うなら、大いなる民とする」という祝福の約束の条件を、妻のサラと共に25年かけて不安を一つ一つ克服して、守リ通すのです。親族や家族を当てにしないでただ「あなたと共にいる」との神さまの約束だけを頼りに、日々の生活を進めた模範を信仰の父とし、日々御言葉に聞く生活をし続けてまいりましょう。
そこに、私達の次世代への責任ある生活を見たいものです。