Saturday, July 5, 2014

キリストのうちに自分を見出す

「 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」  ピリピ人への手紙3章9節
 ピリピ人への手紙に、主にあって喜ぶことができることの理由がはっきり示されています。「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」(1:6)と記したパウロは「キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。」(2:20)とも証言するのです。そしてさらに、「更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」(3:8-9)と確信しているのです。神さまが義認され、それを信仰で受け止めたクリスチャンが、もはや自分自身が生きるのではなく、キリストの内に自身を見出す生き方を通して、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:10)を実感するのです。すべての喜びの基である主イエスの御名を誉め讃えることができる幸いを感謝するとともに、いつまでもそのようにできる状態を保つ責任を私たちが負っていることを自覚いたしましょう。