Saturday, June 27, 2015

キリストの弟子

「この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである」        エペソ人への手紙3章12節

「わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 」(ピリピ1:20)ここにパウロは、イエスのキリストであることの語り部として、止むに止まれない思いを吐露しているのです。その感情はとても激しいもので、パリサイ人の教師であったサウロ時代から絶えることなく持ち続けたパウロの姿勢だと思われますが、霊的にイエスさまに出会って新しい使命を受けてから(使徒行伝9:15)益々強い語調で「イエスが主である」ことを語り続け、使徒行伝22章ではユダヤの人々にへブル語で、26章ではアグリッパ王の前で弁明して、「それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」(26:18)と主のお言葉を告げるのでした。これがパウロの、「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」と言う強い証しなのです。