Saturday, October 3, 2015

主が受けられた献金

「そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。 」
マルコ12章43節

「またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。 (創世記28:22)この創世記の記事は、ヤコブが故郷に帰るときに安全を神に願ったときの祈りです。信仰の祖アブラハムが十一を献げた記録を14章に見ることができます。元来献げ物は、神への願いと感謝を伴なって献げられたようですが、レビ人が専ら神さまのために働く職務につくようになってから、彼らの生活を支えるために行われるようになりました。ですから、十一の額がその教会の伝道者給となっている教会もあるようです。「みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」(マルコ14:44)のイエスさまの言葉は、献金の額を問題にしているのではなく、献げる人の心の状態を、即ち、心から主に感謝し精一杯をお献げすることができているかを問うておられるのです。使徒行伝5章は、アナニヤとサッピラの初代教会で起こった事件を記録していますが、ペテロの指導は、主の御霊を試みてはならない事を強く教えています。心から献げられた、その人の信仰の証こそ、主の前に最もふさわしい献げものということができるのです。そして、主が最も喜ばれるものは、私たち自身を生きた聖なる供え物として献げることで、主は信仰の証として私たちの献身をお受けになるのです。全く明け渡して主のお心のままに歩む私達であり続けましょう。