Tuesday, October 4, 2016

見えると言い張る罪

 「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
                 ヨハネ9章41節

 「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイ7:13-14)ヨハネの記事でイエスさまは、一人の盲人の目を見えるようにされた出来事を通して、アブラハム―イサク―ヤコブと続いたユダヤの信仰と、イエスがキリストであると信じる新約時代の信仰が違っているのではなく、イエスの十字架の贖いの業によって完成されたことを伝えるところに御心が表わされたのではないかと思います。このこの状況の中で、キイワードは、神さまの前の罪とは何かという事ではないでしょうか。神の前の律法違反を糾弾した祭司に対して、見えなければ罪はなかったと語られたイエスさまは、見えるようにされた男性がかつては見えなかったので罪はないかったと話されているようです。人が情報として受け取る80-90%は目からの情報であると言われています。同じ目から、罪の誘いも入って来る事を考えると、神さまを知らないという罪も神さまを要らないという罪も目からの不従順が起点になっているかもしれません。「見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。(黙示3:18)と言う主の勧めは、悔い改めて主に信頼する意味を実感します。