tag:blogger.com,1999:blog-69352770879365586752024-03-28T13:44:16.703+09:00セントラルバプテスト教会セントラルバプテスト教会は、群馬県前橋市にあるキリスト教会です。1976年(昭和51年)に前橋市山王町に誕生いたしました。聖書の教えを忠実に守る伝統的なキリスト教会で、日本バプテスト・バイブル・フェローシップに所属しています。どなたでもご自由に来会していただけます。「教会や聖書は初めて」という方も大歓迎です。ご一緒に聖書を学びましょう。皆様のお出かけを心よりお待ちしています。シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comBlogger152125tag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-21687075032607498572024-03-24T13:00:00.001+09:002024-03-24T13:00:00.133+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b><span style="font-size: medium;">自分にもあるみにくい心</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">15</span>章<span lang="EN-US">16-20</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。それから、彼らはイエスを十字架につけるために引き出した。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">15</span>章<span lang="EN-US">20</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.イエスさまをからかった兵士たち<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">兵士たちは、イエスさまに王の格好をさせ、いばらのかんむりをかぶせ、紫の衣をはぎ取り、葦の棒で頭を叩き、つばきを吐きかけます。自分の快楽のために人へのいたぶりを楽しむという彼らのみにくい心があらわになっています。聖書はこれが人間の本質であると示しています。罪は人を思いやる心を失わせ、自分の快楽のためにどこまでも残忍でみにくくなれる心を引き出すのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.口を開かれなかったイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">兵士たちの軽べつやからかいも神さまのご計画でした。イエスさまはそれをご存じでしたので抵抗されませんでした。ここで見られる兵士たちの言動は、私たちの中にもある罪の姿です。イエスさまは、そんな私たちの罪を受け入れて、苦しんでくださいました。そして私たちのみにくい心が、神さまの愛に満たされるようにと黙って耐えてくださいました。私たちの中にもある兵士たちと同じ心を見つめながらもいのちをささげてくださるほどに愛なるお方がイエスさまです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.みにくい心と自己中心<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">救いのみわざによってイエスさまは、私たちをみにくい心からも自由にしてくださいました。みにくさは私たちの自己中心の罪からくるものです。この世に生きる私たちには、自己中心が染みついているので、そこから出る悪い心にも気づき難いのです。しかしイエスさまは、自己中心の思いを神さま中心の思いに変えてくださいます。もしみにくい心が出てきても、信じた私たちはその心をまるごとイエスさまに明け渡すことで、みにくさから解放されるのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">3</span>月<span lang="EN-US">24</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-32916951855081757052024-03-17T13:00:00.001+09:002024-03-17T13:00:00.239+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b><span style="font-size: medium;">百倍の実を結ぶ種と土</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">4</span>章<span lang="EN-US">13-20</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">4</span>章<span lang="EN-US">20</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.良い地とされた人の役割<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは弟子たちに先のたとえ話を詳しく話されます。それはみ言葉が語られた時に人々が示す四種類の反応でした。イエスさまは弟子たちに、「あなたがたがみ言葉を語る時が来ます。その時、人々が四番目の反応をして、み言葉を信じて受け入れ、わたし<span lang="EN-US">(</span>イエス<span lang="EN-US">)</span>の弟子として歩めるように助けなさい。」と伝えておられます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.み言葉が良い地を保つ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">人々がイエスさまの弟子となるように助けるには、自分自身がたとえの<span lang="EN-US">4</span>番目の人として実を結ぶことが大事です。それにはみ言葉の力を信じて受けとめ、御霊を意識して御霊に助けをいただくことが必要です。農作物が自然の影響を受けるように、私たちもこの世の影響を常に受けます。この世は御霊の働きを弱めて、良い地である私たちの環境を悪くします。そうならないためにもみ言葉が大切です。み言葉は種として実るだけでなく、良い地を保つ力ともなるのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.種の力を信じる<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">信仰者にまかれたみ言葉の種が実を結ぶので、私たちは喜びにあふれ、勝利の人生を歩むことができます。土そのものが立派になるのではありません。しかし霊の目で見れば、み言葉の種が驚くべき実を結んでいることが見えてきます。自分で分からなくても、他の人から見れば、教会に来始めたころと今では大きく違っていることが肉の目にも明らかでしょう。信仰者は霊で聞きます。知恵や記憶力に優れていなくても、年老いていても、霊の実は確実に結ばれます。み言葉の種の力を確信して、ますますみ言葉をいただいて歩みましょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">3</span>月<span lang="EN-US">17</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-3747145994944879802024-03-10T13:00:00.001+09:002024-03-10T13:00:00.132+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>種まきのたとえ話は誰のため</b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">4</span>章<span lang="EN-US">1-12</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">4</span>章<span lang="EN-US">9</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.弟子たちへの励まし<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは種まきのたとえ話をされました。ただしこのたとえが何を教えているかは、群衆には語られず、弟子たちだけに知らされています。イエスさまは、「弟子のあなたたちだけが、このたとえの<span lang="EN-US">4</span>番目のタイプです。お言葉がしつかりと根付き、芽を出して<span lang="EN-US">30</span>倍、<span lang="EN-US">60</span>倍、<span lang="EN-US">100</span>倍の実を結ぶ良い地とされた人たちです」と言われているのです。これは弟子たちとまた、私たち信仰者への励ましです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.聞きなさい<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは<span lang="EN-US">3</span>節と<span lang="EN-US">9</span>節で、聞くことを強調されています。ただ聞けば良いというのではなく、霊の耳で聞くようにと教えられています。それには神さまの前にへりくだる必要があります。まず自分が神さまの前にどんなに罪深く、おろかでみじめな者であるかを知り、そしてそんな無価値な者を神さまが選び、罪から解放してくださっていることがどれほどの恵みかを知ることです。罪ゆるされた私たちは聞く耳を持って聞き、神のみこころを行うものとされているのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.神の国の奥義<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">「奥義が授けられている」とは、隠されていたものが、見えるようになることです。ここでの「神の国の奥義」とは、神さまの導きによる歩みです。それは霊的で目には見えません。しかしイエスさまが目に見える神さまとして来てくださったので、その導きが見えるようになりました。弟子たちが、神さまであるイエスさまから愛され、守られ、導かれていることは目で見て明らかでした。そんな弟子たちにイエスさまは、「もうあなたがたは多くの実がなる4番目のよい地です。その祝福された姿で人々に証しをしなさい」と語られています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">3</span>月<span lang="EN-US">10</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-36237906821624204412024-03-03T13:00:00.001+09:002024-03-03T13:00:00.131+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span style="font-size: medium;"><b>あなたもイエスさまの家族</b></span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">31-35</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">35</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.イエスさまの身内に対する態度<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">母と兄弟たちが来ていることを伝え聞いたイエスさまは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」と返事をされました。これは、あまりにも身内に対して冷たい言葉に感じます。しかしイエスさまは、信仰さえあれば身内に冷たくて良いと教えられているのではありません。このお言葉にあるイエスさまの思いを見てみましょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.目に見えない霊的な結びつきの大切さ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまはここで、「わたしの母、わたしの兄弟」をたとえとして用いています。イエスさまを信じた者同志が霊的にどれだけ強く、深いつながりになっているのか、それはこの世における私たちの肉親以上のつながりだと言われています。またイエスさまは信じた私たちをこの世の肉親以上に霊的なもっとも身近な関係として愛し、導き、見守りながら必要な助けをしてくださっています。それを「わたしの母、わたしの兄弟」という言葉を用いて表現されているのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.神のみこころをおこなう者<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまを囲んですわっていた人々<span lang="EN-US">(32</span>節<span lang="EN-US">)</span>は、イエスさまの話を一生懸命聞こうとしていました。イエスさまは、「あなたがたはわたしの言葉を聞いて、従おうとする者です。わたしはあなたがたの霊的成長を見越して、神のみこころを行う者としています。そんなあなたがたは、わたしのもっとも身近な霊の家族です。」と言ってくださっているのです。イエスさまを信じてお言葉に親しみ、お言葉に従って歩もう、歩みたいので助けてくださいとイエスさまに頼る者は皆、みこころを行う者であり、イエスさまの霊の家族の一人となります。これは信じた者に欠かせない恵みの福音(良い知らせ)です。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">3</span>月<span lang="EN-US">3</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-36953305109504883862024-02-25T13:00:00.001+09:002024-02-25T13:00:00.137+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>ゆるされない罪とは</b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">19c-30</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">29</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.真理を見えなくするもの<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">律法学者たちは、イエスさまが汚れた霊の力で悪霊たちを追い出していると言います。彼らは、自分たちの立場を守ろうとする肉の思いからイエスさまの奇跡を悪しき霊の内部抗争だと言い張ります。 肉の思いは私たちの霊の目もふさぎます。いつも聖霊を意識し、肉の思いを神さまに明け渡して、霊の目で見る必要を教えられます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.律法学者たちに示された福音<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ここでイエスさまは、「悪しき霊たちも内輪もめすれば、自滅してしまうことは分かっているので、彼らもそのようなことはしない」とたとえを用いて説明されています。そして「わたしは悪霊よりもはるかに強い神の力で悪霊たちを縛りあげて、人々を神さまの支配の中に移しているのです」と伝えています。私たちはイエスさまを信じることで、神の前にある罪が赦されます。そしてサタンの支配から解放されるのです。さらにイエスさまのご支配のもとに移されて、そこで愛によって守られ、育まれ、祝福されるようになります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.聖霊を汚す罪<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまを信じる者はどんな罪も赦されます。ただし例外があります。それは聖霊を汚す罪です。そのような人は永遠に罪人としてさばかれることになります。聖霊は真理を告げて人に罪を知らせます。この聖霊をばかにして汚す者は、自ら罪を認めてイエスさまのもとに行くことができません。だから罪赦されることは永遠にないのです。私たちはイエスさまを信じた瞬間から、内に聖霊をいただきます。この聖霊を意識して歩むようにしていれば、決して聖霊を汚すことはなく、神さまの赦しの中にずっと居続けることができるのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">2</span>月<span lang="EN-US">25</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-87096671500530306202024-02-18T13:00:00.001+09:002024-02-18T13:00:00.132+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b><span style="font-size: medium;">使徒と呼ばれた弟子たち</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">13-19</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">14-15</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.使徒と呼ばれた<span lang="EN-US">12</span>人<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは<span lang="EN-US">12</span>人の弟子を任命し、「使徒<span lang="EN-US">(</span>派遣された者の意<span lang="EN-US">)</span>」と呼ばれました。彼らにはイエスさまの十字架の死と復活、またそこにある福音<span lang="EN-US">(</span>良い知らせ<span lang="EN-US">)</span>を人々に宣べ伝えていく重要な役割がありました。彼らは無学なただの人たちでしたが、神さまを誇ることができました。自分たちが神さまの前に無きに等しい者であると自覚できたからです。イエスさまはそんな彼らを「使徒」として選ばれたのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.イエスさまがされた三つのこと<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは彼らに、①自分のそばに置くこと、②宣教に遣わすこと、③悪霊を追い出す権威を与えることの三つをなされました。彼らの信仰は、イエスさまに倣うことで成長しました。そして福音を宣べ伝えるための訓練として、悪霊追放の権威とともに宣教に遣わされました。彼らはそこで神さまを信頼し、神さまに頼ることを学びました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.イエスさまのそばに置かれた弟子たち<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">使徒たちの日々は、信仰の中に生活のすべてがある状況でした。私たちがここから学ぶのは、使徒と同じ生活をすることではありません。私たちの目の前に起こること全てに神さまの御手が働かれていることを受け入れることなのです。私たちの信仰の入り口は、自分の思いどおりになることを願うものであったかもしれません。しかし自分の思い通りではなくても、それが神さまのご計画であり、私たちの最善となることを教えられています。神さまの御心を求め、神さまが喜ばれる選択をしようと願う信仰者であるように、そのためにも神さまを信頼し、神さまに頼るように神さまは私たちに望まれています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">2</span>月<span lang="EN-US">18</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-25317272413824865752024-02-11T13:00:00.001+09:002024-02-11T13:00:00.150+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b><span style="font-size: medium;">神さまの時を知る</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書3章<span lang="EN-US">7-12</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">10</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.イエスさまにさわろうとした群衆<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">人々はいやしの力をいただこうと、先を競ってイエスさまに触ろうとしていました。ここには人々の自分本位の思いと傲慢さが描かれています。マルコは<span lang="EN-US">5</span>章で、イエスさまのみ衣にさわって病が癒された女性のことを紹介しています。彼女はイエスさまの御力を信じて恐る恐る触れました。そこには彼女の信仰があり、傲慢さは見られません。この箇所からも「私の思うようにしてほしい」という自分本位の思いは信仰ではないことが示されています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.押し寄せた群衆<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは小舟を用意させました。我先にと群衆がイエスさまに触わろうとして、ドミノ倒しになる事故を避けるためでした。群衆心理によって群衆行動が起こります。それには人間の尊厳を失わせる怖さがあります。私たちは信仰者として、また神さまに愛されている器として、人の尊厳を重んじる生き方をしたいと思わされます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.神さまの時とお心を知る<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">人の尊厳を重んじるにはどのようにしたらよいでしょうか。神さまのお心と神さまの時を知るイエスさまは、いつも先の先までの状況を読まれて、落ち着いて行動されていました。私たちはイエスさまのように神さまのお心と神さまの時をすべて知ることはできません。世の噂に惑わされ、群衆心理にも巻き込まれやすい弱さがあります。その上、自分本位な主張も出てきます。だからこそ真理と時を知り、責任を持って導かれる神さまに全面的に信頼を寄せていくのです。それが信仰者としてまた人の尊厳を重んじる人としての立ち位置です。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">2</span>月<span lang="EN-US">11</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-54666240101879077332024-02-04T13:00:00.001+09:002024-02-04T13:00:00.145+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>日曜礼拝の意味</b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">1-6</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。 </b></span><b style="font-family: inherit;"> マルコによる福音書<span lang="EN-US">3</span>章<span lang="EN-US">4</span>節</b></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.イエスさまの怒りの意味<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは、片手のなえた人に中央に出るように命じて癒しをされました。そして人々に「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われました。しかし人々は黙っていました。彼らは何があっても決まりを守り、どんな理由でも守れない者は裁かれるべきだと考えていました。イエスさまは、そんな人々のかたくなで、愛のない態度に怒りをあらわされました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.土曜日の安息日と日曜日の礼拝<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">決まりをたてに人を裁くことは、神さまが安息日に求めておられることではありません。安息日は、神さまが喜ばれる善に目を向ける日です。弟子たちは、イエスさまの十字架と復活を信じることで罪なき正しい人とされること、さらに安息日律法をも完全に守った者とされることを理解しました。そしてイエスさまの復活を記念し、証しを続ける日として日曜日を聖日として礼拝を守るようになりました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.日曜日の礼拝とは<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">初代教会の礼拝では、①使徒たちの教えを守る、②信徒の交わり、③共にパンをさく(主の晩餐)、④祈りの<span lang="EN-US">4</span>つのことが行われていました。弟子たちは安息日の本質を学び、しかも安息だけではなく、一週間の疲れと汚れを拭い去っていただくこと、また迎える一週間を主と共に歩むために、安息の内に新たな力と恵みをいただく日としたのです。それが聖日礼拝なのだと受けとめ、守り続けました。聖日礼拝を守れるということが、いかに大きな恵みであり祝福であるかを覚えて、礼拝を喜び、人を裁かない信仰者であるように教えられています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年月<span lang="EN-US">4</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-13270968241641737912024-01-28T13:00:00.001+09:002024-01-28T13:00:00.155+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span style="font-size: medium;"><b>日曜日の安息とは</b></span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">2</span>章<span lang="EN-US">23-28</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が 安息日のためにあるのではない。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">2</span>章<span lang="EN-US">27</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.律法に縛られたパリサイ人<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">弟子たちは麦の穂を取って、手でもんで殻をはがして食べました。パリサイ人たちは、それが安息日にはしてはならない収穫の仕事だと非難します。弟子たちの行為を指摘した人々は、きまりを守ることに必死でした。そして律法ときまりに縛られて奴隷のようになっていました。私たちは聖書のお言葉に対して、「~でなければならない」と縛られてはいけません。イエスさまの似姿を求めながら神さまがよろこばれる方に自ら喜んで従って行く、そんな歩み方が大切です。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.人のための安息日<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは、「安息日は人のために設けられたものだ」と言われました。旧約聖書にその本質が記されています。安息日は神さまに愛され、守られている民のしるしでした。そして週に<span lang="EN-US">1</span>度の精神的ならびに肉体的な休みの時として与えられています。その日には、霊的に養ってくださる神さまに感謝して、自分自身を差し出すようにするのです。私たちも週に一度喜んで、霊とまことをもって自分自身を礼拝でお献げする信仰者であるようにと教えられています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.安息日と礼拝<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">私たちは日曜日に礼拝をお献げします。それは日曜日が、安息日の主イエスさまの十字架と復活を宣べ伝えるのに最も相応しい日だからです。そして神さまは肉体的、精神的、霊的に安息を得るようにと招いておられます。時に事情で礼拝できないこともあるでしょう。しかし裁くのは神さまの御心ではありません。礼拝では神さまの安息を重んじて、世のこと以上に神さまに心を向けることが何よりも大切です。それが神さまの愛に応え、神さまに喜ばれることになります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">1</span>月<span lang="EN-US">28</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-45515334451678912342024-01-21T13:00:00.001+09:002024-01-21T13:00:00.162+09:00<p><span style="font-family: inherit;"> <span style="font-size: medium;"><b>福音は新しい皮袋に</b></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">2</span>章<span lang="EN-US">18-22</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">2</span>章<span lang="EN-US">22</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.断食とは何か<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">レビ記<span lang="EN-US">16:31</span>に年<span lang="EN-US">1</span>回の公的な断食の規定があります。しかしきまりを厳しく守るパリサイ派の人たちは、週に<span lang="EN-US">2</span>度の断食をしていたようです。そしてイエスさまに対して「どうしてあなたの弟子たちは断食しないのですか」と問いただしました。ここでイエスさまは、断食の本質を示されます。それは自分の弱さを認め、神さまの前に心砕かれること。そして神さまの前にへりくだって祈り、愛を実行していくことでした。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.真理を受け取る柔軟性<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまはマルコ<span lang="EN-US">2:21</span>のたとえを用いて、人々の信仰が向かう方向のずれを指摘されます。きまりを守る生き方ができているかということが、人々の信仰の判断基準になっていたからです。イエスさまはそうではなくて、「わたしが言うことを信じて、良い知らせ(福音)として受けとる柔軟性が必要である」ことを示されていました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.新しいぶどう酒は新しい皮袋に<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">マルコ<span lang="EN-US">2:22</span>でもう一つのたとえが話されています。布のたとえは同じ生地(材料)でしたが、ここでのたとえは材料が異なり、入れる器だけでなく中身も違います。これはイエスさまが示される福音、イエスさまによる救いは新しいぶどう酒が発酵するように、私たちの想像をはるかに超えた素晴らしいものであることをたとえています。そしてそれを古くて固まった古い皮袋に押し込めようとするのではなく、新しい皮袋に入れるように諭されています。イエスさまよる救いは、発酵する新しいぶどう酒のように私たちの中で神の力として発酵し続け、私たちを全く新しい人として造り変える力があるからです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">1</span>月<span lang="EN-US">21</span>日 週報より</span>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-84672557693397879422024-01-14T13:00:00.001+09:002024-01-14T13:00:00.143+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span style="font-size: medium;"><b>分け隔てる心が誘導する場所</b></span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">2</span>章<span lang="EN-US">13-17</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-align: right;"><span style="font-family: inherit;"><b>わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。 </b></span><b style="font-family: inherit; text-align: right;">マルコによる福音書<span lang="EN-US">2</span>章<span lang="EN-US">17</span>節</b></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.レビを招いたイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは取税所のレビを弟子に招きました。このレビが、イエスさまの弟子マタイです。取税人はユダヤ人を支配するローマのために税金を集めていたので人々から嫌われて、罪人として軽蔑されていました。マタイ自身にも罪意識がありました。しかし、そこにイエスさまの招きが一筋の光となって差し込みました。今の状況から救い出してくださるのはこの方だと確信して、イエスさまに従いました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.こんな人たちと食事をされたイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">マタイは仕事仲間や周囲の人々を招いてイエスさまとの食事会を開きます。彼らにも自分のような罪の束縛から解放される喜びを味わって欲しいと思ったからです。当時パリサイ派といって決まりを守ることを<span lang="EN-US">1</span>番とする人たちがいました。彼らは取税人たちを罪人として裁き、分け隔てしていました。しかし、イエスさまは、そんな人々を喜んで受け入れられました。私たちも自分の思いや判断で人を分け隔てしていないかをいつも確認する必要があります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.罪人を招くイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまはパリサイ派の人たちに「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。と言われました。医者に治療してもらえるのは、病気を自覚して病院を訪れた人です。罪も同じです。イエスさまは罪を自覚している人の魂をいやされるのです。イエスさまは人を分け隔てする心も罪だと言い、その罪によって、人は天国ではなく永遠に苦しむ滅びに向かうと教えておられます。分け隔てる罪の心を決して分け隔てされないイエスさまにゆだねましょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">1</span>月<span lang="EN-US">14</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-75320432760044753002024-01-07T13:00:00.001+09:002024-01-07T13:00:00.134+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>喜びをともにする幸い</b></span></p>
<p class="MsoNormal">聖書箇所 マルコによる福音書2章1-12節</p><p class="MsoNormal" style="text-align: right;"><b style="font-family: inherit;">すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、</b><b style="font-family: inherit;"> マルコによる福音書<span lang="EN-US">2</span>章<span lang="EN-US">1-12</span>節</b></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.四人の信仰<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">四人は家の屋根をはがしてまでも、中風の人をイエスさまに癒していただこうとしました。彼らはイエスさまに不可能はなく、必ず癒してくださると信じきっていました。私たちもイエスさまに不可能はないことを信じる信仰に立っていることを忘れてはなりません。神さまは、とりなす祈り手の信仰にも必ずこたえてくださるので、私たちは決してあきらめないとりなしの祈り手になる必要があります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.中風の人の信仰<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">中風の人は、罪意識によって心が縛られていました。イエスさまは、彼に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。その権威あるお言葉の前に、彼は「私は罪が赦された、もはや病人でもない」そう信じてすぐに立ち上がる決心をし、歩くことができました。ここに彼の信仰があります。これが罪ゆるされた者の歩みです。信じた私たちも同様に罪の床から一歩踏み出し歩む者とされたのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.人々と律法学者たち<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">四人は、癒された彼と共に喜びに喜んだことでしょう。周りにいた人々も「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたイエスさまのお言葉を自分のこととして受けとめました。彼らも神さまの前に罪の意識がありました。「今のままで良いのだろうか」と不安を抱えていました。しかし律法学者たちは違いました。彼らは神さまの前に正しく罪などないと思い込んでいたからです。私たちは神さまの前に罪ある者だと認める時に初めて罪の赦しをいただきます。そして神さまの前に罪なき者として立つことのできる恵みがどれほど素晴らしい者であるかを知ることができるのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">1</span>月<span lang="EN-US">7</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-12992729867757160002024-01-01T13:00:00.001+09:002024-01-01T13:00:00.266+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>御霊によって歩む</b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 ガラテヤ人への手紙5章<span lang="EN-US">16-18</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。ガラテヤ人への手紙<span lang="EN-US">5</span>章<span lang="EN-US">18</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.御霊による歩みの継続<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ガラテヤ地方のクリスチャンたちは御霊を遠ざけて、律法主義や肉の欲に従う間違った歩みを始めていました。そこで、パウロは「あなたたちは、御霊によって信仰の歩みをはじめたのだから、最後まで御霊によって歩むように」と警告を与えています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.御霊による肉の支配<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">私たち信仰者の内には、常にこの世と真理の御霊との戦いが起こります。パウロは自分の弱さを覚えても、御霊に仕えることで神さまから力をいただきました。そして私の力は弱さのうちに完全に現れると言うことができました。御霊は私たちを助け、必要な指示を出して神さまの支配を広げ、確実に勝利を導いてくださいます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.御霊によって歩むために<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">御霊によって歩むためにどうすればよいのでしょうか。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">第一に自分の中の御霊の働きを意識し、その働きを確信することです。み言葉を示される時、罪を示される時、また他の人の証し等によって私たちは御霊の存在を確認し、意識することができます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">第二に御霊の力を信じることです。御霊には神さまの支配を広げ、肉の思いを圧倒する力が確かにあります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">第三は、御霊に従っていくことで、肉の思いに振り回されずに神さまのみ心の内を歩めると確信することです。御霊の助けを受けることは、神さまの助けを受けることであり、御霊によって悟ることは神さまによる悟りとなります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">新しい年に「御霊の導きを信じる」歩みをともにいたしましょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2024</span>年<span lang="EN-US">1</span>月<span lang="EN-US">1</span>日 新年元日礼拝プログラムより</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-5399384008920152612023-12-31T13:00:00.001+09:002023-12-31T13:00:00.127+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span style="font-size: medium;"><b>良くしてくださる神さま</b></span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 詩篇<span lang="EN-US">103</span>篇<span lang="EN-US">1-18</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わる いつくしみは大きい、 詩篇<span lang="EN-US">103</span>篇<span lang="EN-US">11</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.神さまの恵みを感謝する<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ダビデは神さまからの恵みに対して神さまを褒めたたえています。同時にその恵みを心にとめるように自分自身に呼びかけています。私たちはどうでしょうか。神さまからの恵みを意外に早く忘れてしまうかもしれません。ダビデは神さまからの恵みを数えて忘れずに、神さまを恐れることがとても大切なことを理解していました。だからこそすぐに、素直に神さまの前に悔改めることができたのです。ダビデは、不義(罪)の赦しを神さまの恵みの一番にあげています。さらに神さまによる病の癒しやあわれみ、また神さまがいつも良いもので満たしてくださる恵みにも感謝しています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.恵みによって神さまを恐れる<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">神さまは私たちの罪にしたがって私たちを扱うことはなさらないお方です。そして私たちの“とが”をはるか遠くに追いやってくださいます。“とが”は罪を引き起こす不満に満ちた心です。私たちには恨みや怒りを忘れられず、倍返ししないとおさまらない弱さがあります。しかし神さまは私たちの罪を遠ざけてくださり、いつまでも覚えておられずにあわれんでくださるのです。その上で神さまは一日、また一日と私たちを確実に支えてくださって、明日のことは思いわずらうなと言われます。ダビデは神さまの恵みを「何一つ忘れるな」と言い、恵みを数えて主を恐れました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">新しい年に神さまの恵みを数えて励まされ、勇気と力をいただきましょう。私たちの弱さをよく知って、あわれんで恵んでくださるこのお方に感謝しましょう。そして一日、また一日と与えられる恵みを数えて、神さまを恐れて歩んでまいりましょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">12</span>月<span lang="EN-US">31</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-2104995782471948852023-12-24T18:00:00.001+09:002023-12-24T18:00:00.338+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>私たちとともにおられる神</b></span></p>
<p class="MsoNormal" style="tab-stops: 35.45pt 92.15pt;"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所イザヤ書<span lang="EN-US">7</span>章<span lang="EN-US">14</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal" style="tab-stops: 35.45pt 92.15pt;"><span style="font-family: inherit;"><b>見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。 イザヤ<span lang="EN-US">7</span>章<span lang="EN-US">14</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal" style="tab-stops: 35.45pt 92.15pt;"><span lang="EN-US"><o:p><span style="font-family: inherit;"> </span></o:p></span><span style="font-family: inherit; text-indent: 13.55pt;">私たちは「メリークリスマス」といいます。メリーは「おめでとう」、クリスは「イエス・キリスト」のこと、マスは礼拝のことです。つまりイエスさまが来られて礼拝できる喜びがメリークリスマスです。イエスさまのお誕生は、聖書に書かれている遠い昔からの神さまの約束でした。その約束を</span><span style="font-family: inherit; text-indent: 13.55pt;">世界中の人たちが知って、待ちわびていたから、そして神さまがその約束を果たしてくださったから、今も世界中の人たちがクリスマスをお祝いしているのです。</span></p>
<p class="MsoNormal" style="mso-char-indent-count: 2.02; text-indent: 21.2pt;"><span style="mso-ascii-font-family: 游明朝; mso-fareast-font-family: 游明朝; mso-hansi-font-family: 游明朝; mso-ligatures: none;"><span style="font-family: inherit;">ところで私たちは約束を守れていますか。会社や職場、また家族の中でいろいろな約束をしていると思いますが、その達成度合いはいかがでしょう。私たちは約束を守れなかったり、忘れてしまったりすることがあるのではないでしょうか。私にはあります。そして、約束を守れなかった時にはごまかしたり、言い訳して人のせいにしたり、噓をついたりすることもありました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></span></p>
<p class="MsoNormal" style="mso-char-indent-count: 2.02; text-indent: 21.2pt;"><span style="mso-ascii-font-family: 游明朝; mso-fareast-font-family: 游明朝; mso-hansi-font-family: 游明朝; mso-ligatures: none;"><span style="font-family: inherit;">神さまはそのような態度、行為やことばを罪とされます。人を傷つけたり、盗むだけではなくて、他人のせいにしてしまうことや心の中の悪い思いも罪なのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></span></p>
<p class="MsoNormal" style="mso-char-indent-count: 2.02; text-indent: 21.2pt;"><span style="mso-ascii-font-family: 游明朝; mso-fareast-font-family: 游明朝; mso-hansi-font-family: 游明朝; mso-ligatures: none;"><span style="font-family: inherit;">しかし神さまはこのような罪ある私たちへの約束を守り、イエスさまをお送りくださいました。イエスさまは<span lang="EN-US">1</span>つの罪も犯されませんでしたが、私たちの罪をご自分のこととしてすべて引き受けてくださいました。その罪の罰が十字架でした。イエスさまは十字架にかかって死なれました。しかし<span lang="EN-US">3</span>日目によみがえられました。このことを信じる者は、誰でも神さまに罪のない神の子としていただけます。そしてお言葉のインマヌエルのとおり、イエスさまがいつも私たちといっしょにいてくださいます。「何があってもあなたと一緒にいますよ、あなたを決して見捨てませんよ」と約束してくださるイエスさまを私たちに神さまがプレゼントしてくださったのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></span></p>
<p class="MsoNormal" style="mso-char-indent-count: 2.02; text-indent: 21.2pt;"><span style="font-family: inherit;"><span style="mso-ascii-font-family: 游明朝; mso-fareast-font-family: 游明朝; mso-hansi-font-family: 游明朝; mso-ligatures: none;">このイエスさまを受けとることがクリスマス、いつも一緒にいてくださるイエスさまの愛に気付き、その愛を受け入れるのがクリスマス、イエスさまを信じることで、これまでの悪いことも悪い思いも拭い去られて新しい歩みを始めるのがクリスマス、神さまそして神の子イエスさまありがとうと感謝するのがクリスマスなのです。</span><b><span lang="EN-US" style="color: #0070c0; font-size: 11pt;"><o:p></o:p></span></b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="mso-ascii-font-family: 游明朝; mso-fareast-font-family: 游明朝; mso-hansi-font-family: 游明朝; mso-ligatures: none;"><span style="font-family: inherit;">2023</span></span><span style="mso-ascii-font-family: 游明朝; mso-fareast-font-family: 游明朝; mso-hansi-font-family: 游明朝; mso-ligatures: none;"><span style="font-family: inherit;">年<span lang="EN-US">12</span>月<span lang="EN-US">24</span>日 イブ集会メッセージ抜粋</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-25024538911764433852023-12-24T13:00:00.001+09:002023-12-24T13:00:00.160+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>平和の王の誕生</b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 イザヤ書<span lang="EN-US">9</span>章<span lang="EN-US">6</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。 </b></span><b style="font-family: inherit;"> イザヤ書<span lang="EN-US">9</span>章<span lang="EN-US">6</span>節</b></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">クリスマスはイエス・キリストが、お生まれになったことを喜び、お祝いする日です。イエスさまの誕生は遠い昔からの神さまの約束でした。この約束の実現を私たちが実感できることが、クリスマスの喜びなのです。イエスさまは「平和の君」と言われています。聖書はこの世に争いや戦争がないとは言っていません。しかし平和の君であるイエスさまが神の国の王になり、平和が訪れることは神さまの約束です。それはイエスさまの誕生と同じようにこの先必ず実現します。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書はまずイエスさまを信じて、私たちが神さまとの平和を実現するように教えます。人は誰しも人を分け隔てる思い、自己中心の思い等があります。それらは神さまの前に罪となります。そのため罪を嫌われる神さまと私たちの間に平和がないのです。イエスさまは私たちのすべての罪を引き受けて、私たちの代わりに十字架で罰を受けてくださいました。神さまはイエスさまを死からよみがえらせて、信じるすべての人を罪なき者として神さまとの平和をくださいます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">国と国との争いは相手への敵意から生まれます。それは自国のみが正しいとし、守ろうとする思いから来るものです。私たち一人一人にも自己保身の思いから敵意が生じます。しかしその敵意は、神さまにある平和と神さまの愛によって消すことができるのです。神さまの愛に満たされた思いと行動は、大きな敵意にも良い影響を与え続けます。</span></p><p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">クリスマスは、一人一人が神さまとの平和の大切さを知って受け入れる日、神さまにある平和と神の国のできる未来を確信し、消えることなない希望と神さまにある平安をいただく日でもあります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年1<span lang="EN-US">2</span>月<span lang="EN-US">24</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-48543538861489966592023-12-17T13:00:00.001+09:002023-12-17T13:00:00.307+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span style="font-size: medium;"><b>遠い昔からの神の約束</b></span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 イザヤ書<span lang="EN-US">53</span>章<span lang="EN-US">3-7</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 イザヤ書<span lang="EN-US">53</span>章<span lang="EN-US">4</span>節</b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.神さまの預言者イザヤ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イザヤはイエスさまがお生まれになる約<span lang="EN-US">700</span>年前に南ユダ王国で働きをした預言者です。当時人々の心は神さまから離れ、礼拝は形だけになっていました。神さまは、イザヤを通して厳しい警告を与えますが、何度警告されても人々は神さまに心を向けませんでした。そこで神さまはバビロン捕囚という厳しい裁きをなされました。しかし神さまは、そのような中でも神さまへの信仰を示す者に回復を与え、信仰の民を残してこられたことが歴史を通して明らかにされています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.しもべとして来られたイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">神さまはどこまでも背き続ける民に神さまの計画を忠実に実行するしもべを送ってくださいました。このしもべが救い主なるイエス・キリストです。イエスさまを信じた私たちは、罪の赦しと神の国の希望をいただきます。これは、イザヤが神さまの約束として伝えていたものです。神さまは必ず約束を守られるお方です。その神さまが送られたイエスさまによって、私たちの日々の歩みが支えられています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.聖なる怒りを受けられたイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">神さまは人々の背きの罪を忘れてしまわれたのではありません。神さまの聖なる怒りは、イエスさまの上に振りおろされ、処理されました。それがイエスさまの十字架、罪人である私たちの身代わりの死でした。それによって神さまは信じた私たちすべてを迎え入れてくださるのです。イエスさまはこの地上にお生まれになり、神さまの怒りの十字架にまっすぐに向かわれました。私たちに示されたその愛を心から感謝して、クリスマスをともにお祝いいたしましょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">12</span>月<span lang="EN-US">17</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-88237573554687827482023-12-10T13:00:00.001+09:002023-12-10T13:00:00.241+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span style="font-size: medium;"><b>静まって信頼する大切さ</b></span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">35-45</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">35</span>節</b> <span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.イエスさま人気に振り回される弟子たち<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまのいやしのみわざによって、多くの人々がイエスさまのところに詰めかけて来ました。弟子たちは、イエスさまを必死で探しました。しかしイエスさまは弟子たちに「なすべきは、人々の要望にこたえることではなく、福音を告げ知らせることだ。」とはっきりと言われたのでした。回りの状況に振り回されず、いつも神さまとの交わりを優先して導きをいただくことの大切さを教えられます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.ひとりの病人の信仰<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ひとりの重い皮膚病を患っている人が、イエスさまのところに来ました。当時この皮膚病は触れると人を汚すと考えられていました。彼は社会から締め出され、精神的にも大きな苦痛がありました。しかしこの人はただ「いやしてください。」と願ったのではなく、神さまのみこころを求めました。この人の信仰の素晴らしさを見ること ができます。信仰とは、神さまのお心に絶対的な信頼を置いて自分をすべて神さまにお任せしてしまうことなのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.イエスさまの沈黙命令<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">この人は、「何も人に話さないように」というイエスさまのお言葉を守れませんでした。その結果、イエスさまは表立って町に入ることができなくなりました。彼は自分がイエスさまの働きの妨げになるとは思いませんでした。彼は自分の思い通りにしようとする心の上にイエスさまのお心を置けなかったのです。私たちもまずいったん静まって、自分の心よりも神さまを信頼すること、そしてお言葉を求めてお言葉に従おうとする姿勢が信仰の歩みであると教えられています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">12</span>月<span lang="EN-US">10</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-66729708037200851442023-12-03T13:00:00.001+09:002023-12-03T13:00:00.145+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b><span style="font-size: medium;">あわれみを土台として</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">29-34</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">34</span>節 </b> <span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.シモンのしゅうとめのいやし<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは、シモン(のちのペテロ)の家を訪ねて、彼のしゅうとめをいやされました。神さまは確かにあわれみ深いお方です。しかし、弟子の家族だという理由で、神さまがいやしてくださるのが当然なのではありません。またそれを私たちから要求できることでもないのです。ここでマルコは神さまのあわれみによるお恵みに感謝と謙遜を持って仕える歩みの大切さを示しています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.多くの人々のいやし<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは、人々が連れてきた病人や悪霊につかれた者をいやされました。イエスさまはこのことで、人々がすぐにイエスさまを救い主だと信じるとは思っておられませんでした。このいやしのあとで魂の救いと言う霊的ないやしに目を向けられるように時間をかけておられたのです。このような神さまからの働きかけで、自分で悟ることのできない真理を知るようになることも福音なのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.あわれみによるみわざ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ペテロのしゅうとめ、また病人や悪霊につかれた者たちへのいやしは、周囲の人々の求めによるものでした。イエスさまは、求めがあったのでいやされたのでしょうか。そうではありません。先ほど見たように人々の霊の眼が開かれるように先手を打たれたのです。何より一人一人のようすにあわれみを覚えられ、いやしを与えられたのでした。私たちは、神さまのあわれみによって神さまを見上げる信仰者とされます。そして『ただ神さまのあわれみを求め、よりすがるしかない者です』という土台にしっかりと立ち続けることが大切なのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">12</span>月<span lang="EN-US">3</span>日週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-48596041861900479402023-11-26T13:00:00.001+09:002023-11-26T13:00:00.127+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span style="font-size: medium;"><b>悪霊と聖霊</b></span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">21-28</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">22</span>節 </b> <span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.神さまの権威を持つイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまの会堂での教えは、神さまの権威に満ちあふれていました。それは人の知恵による決まりやその根拠を教える律法学者たちのものとは全く違っていました。権威は秩序を保ちそこに一致を生み出します。そしてそこには神さまに従い、神さまの前に正しいとされる私たちの幸いがあります。マルコは神さまの権威と、権威によって保たれている秩序も良い知らせ(福音)だと私たちに示しています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.悪霊を追い出されたイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">汚れた霊は完全にイエスさまに降参しました。マルコが伝えたかったのは、イエスさまが悪霊に対しても、絶対的な権威で勝利されるお方であることでした。現在、この時のような悪霊の働きは見られないようです。しかしサタンは常に私たちを神さまから引き離そうと働いています。それでもイエスさまに頼り、正しく歩む者にはイエスさまによる勝利をいただけます。それも福音だと伝えられています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.他人事とした人々<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは、ご自分が神さまから遣わされたことを人々が信じ受け入れるようにと悪霊を追い出されました。しかし人々は、ただ驚いて終わりでした。神さまに従えない悪しき働きが自分たちの中にもあることを認めて、イエスさまに求める人は誰もいなかったのです。私たちにも神さまのお心を正しく理解せずに、すべて他人事のように済ませようとする肉の思いがあります。そんな肉の思いに振り回されないように注意する必要があります。そのためには聖霊の助けによってみ言葉から力をいただき、常に霊的に歩むことが大切です。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">11</span>月<span lang="EN-US">26</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-36061379896210082152023-11-19T13:00:00.001+09:002023-11-19T13:00:00.160+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>神さまからのあなたへの招き</b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">16-20</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">18</span>節 </b> <span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.イエスさまの招き<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ペテロはイエスさまのお心を最初から分かっていたわけではなかったでしょう。しかし彼はのちに、どうしようもない愚かな自分をイエスさまが大切に思い、導き続けてくださったことを知ります。イエスさまは、私たち一人一人のことも大切に思い、「あなたは神さまにとってなくてはならない」と招いてくださっています。神さまは招きにこたえる者を御手による大いなる守りと導きの中に入れてくださいます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.神さまからの働きかけ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ペテロたち<span lang="EN-US">4</span>人は自ら弟子を志願したのではなく、イエスさまによって選ばれました。私たちが信じたのも私たちの意志や決心だけによるのではなく、神さまからの働きかけがありました。この働きかけは、全ての人に向けられていています。のばされたイエスさまの手をにぎり返すことを決めるのは自分自身です。この神さまの働きかけの事実に目を向ける時、私たちは神さまの最善と神さまにある希望を確信することができるのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.招きにこたえた弟子として<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">招きにこたえた弟子たちは、仕事の場から離れてイエスさまに従いました。私たちはこの時の弟子たちのように仕事や家庭を置いてイエスさまに従うようには求められていません。しかし霊においてはイエスさまの導きを優先します。聖書のお言葉に従って歩むことで、イエスさまに育まれて、神さまのご計画に加えられていきます。その中で私たちはまことの喜びと平安を見出すことができます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">11</span>月<span lang="EN-US">19</span>日週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-15787938700149769812023-11-12T13:00:00.001+09:002023-11-12T13:00:00.135+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span style="font-size: medium;"><b>あなたはわたしの愛する子</b></span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">9-15</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」</b></span></p><p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b> マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">11</span>節</b> <span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.バプテスマを受けられたイエスさま<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">イエスさまは、罪人たちの中に混ざって、悔い改めのバブテスマをお受けになられます。この後イエスさまは、私たちの罪を身代わりとして背負い、十字架で私たちの代わりに罰を受けて死なれ、<span lang="EN-US">3</span>日目によみがえられます。それを信じた私たちの罪が赦されるためです。そこで、一つの罪もないイエスさまが、罪ある人の代表として罪人と同じ所に立ってくださり、バプテスマを受けられたのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.獣との共存<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">13</span>節の「獣」は、人が罪を犯したことで人と敵対関係となった獅子や熊などの動物をあらわします。イエスさまが伝道活動を開始されるにあたり、人と獣が平和に暮らす神の国のような様子が描かれています。また御使たちが、イエスさまに仕えていました。これはこの先も預言が必ず現実となること、またサタンをものともしないイエスさまの勝利の歩みが開始されることを明確にあらわしているのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.神の国<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">15</span>節の「神の国」とは、特定の場所や国を指すのではなく、神さまの愛のご支配を意味しています。つまり羊飼いのもとにいる羊のように、私たちがイエスさまのもとにいることで喜び、平安、いのちに満たされるのです。それが人にとっての最高の生き方であり神の国なのです。私たちはイエスさまを信じ、御霊をいただいた時から、神さまは私たちを神さまの愛する子、また心にかなう者としてくださいます。神さまは私たちをどこまでも愛し、守り、神さまの御用に用いて、神さまの栄光に入れてくださるのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">11</span>月<span lang="EN-US">12</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-43848343351493538652023-11-05T13:00:00.001+09:002023-11-05T13:00:00.137+09:00<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b><span style="font-size: medium;">備えをしてくださる神さま</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">2-8</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。</b></span></p><p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b> マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">2</span>節 </b> <span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.悔い改めをすすめるヨハネ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">バブテスマのヨハネは人々に悔い改めを迫ります。なぜ悔い改める必要があるのでしょうか。人は皆神さまに向って生きるように造られました。しかし人は罪によって神さまではなく、この世や自分に向いて生きる者となりました。私たちも同じです。神さまに顔を向けてイエスさまをお迎えすることで、人としての正しさを知り、まことの喜びと平安を手にすることができます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.イエスさまの道備えをするヨハネ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ヨハネは人々に「私の後に来られるお方は、人々の罪を赦す神の子であって、永遠のいのちと天の御国の保証である聖霊に満たしてくださるお方です。」と伝えます。私たちは神さまのことを思う者に変えられて、神さまと共に心穏やかに歩めるのです。ヨハネは、イエスさまとイエスさまによる幸いを人々に知らせました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.預言者として働くヨハネ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">らくだの毛ごろもを着て、腰に皮の帯をしめたヨハネの格好は、一目で神さまの預言者と思わせるものでした。預言者のつとめは、①人々に罪を指摘し、②人々の不信仰を警告し、③神さまに立ち帰るように勧め、④立ち帰る者への慰めと励ましを与え、⑤神さまにある希望を確信させることです。今の私たちもこの警告を耳にとめておく必要があります。時代は変わっても、神さまが変わることはないからです。神さまと人との関係も変わりません。私たちはまず礼拝で心の底から神さまを仰ぎ、神さまと共にある幸いを感謝し、喜びましょう。そして神さまからふさわしいお言葉を心に注いでいただきましょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">11</span>月<span lang="EN-US">5</span>日 週報より </span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-89178422334668612492023-10-29T13:00:00.001+09:002023-10-29T13:00:00.145+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>マルコの願い、神さまの望み</b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">1</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 マルコによる福音書<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">1</span>節 </b> <span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.福音<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">「福音」とは、良い知らせです。マルコは「あなたに救いについての良い知らせがあります。それがイエス・キリストによってもたらされました。これから良い知らせについて書きます。」と言っています。そこでマルコは、イエスさまがどこで生まれ育ったかをつぶさに記すのではなく、イエスさまが神の子であり、救い主として来られたことに焦点をあてて描いています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.福音書<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">福音の中心はイエスさまの十字架と復活、そして再臨です。しかし使徒たちは、それだけを伝えたのではなかったでしょう。イエスさまの奇蹟のみわざや、語られたたとえ話などもあわせて伝えていたはずです。彼らは聖霊によって、イエスさまのその時々のことを正しく思い起こしては人々に伝えました。さらに使徒たちがこの世から去っても、彼らの伝えた内容が正確に後世に伝えられるようにと書き記されたのが福音書です。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.マルコ<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">マルコはバルナバのいとこであり、多くの信仰者の集まる家で育ちました。常にイエスさまの福音に触れて信仰が養われたようです。しかしはじめての伝道旅行では、くじけて途中で帰ってしまいます。それでもバルナバの辛抱強い導きもあって、のちにパウロから役に立つ者と言われるほどの伝道者に成長しました。そのマルコが、イエスさまの語られたおことばや出来事のすべてをも福音として私たちが受け取ることを願って書かれたのがこの福音書なのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">10</span>月<span lang="EN-US">29</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6935277087936558675.post-53334726226339021132023-10-22T13:00:00.001+09:002023-10-22T13:00:00.144+09:00<p><span style="font-family: inherit; font-size: medium;"><b>神の義・愛・恵み</b></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">聖書箇所 ペテロの第一の手紙<span lang="EN-US">5</span>章<span lang="EN-US">12-14</span>節<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><b>この恵みのうちに、かたく立っていなさい。 ペテロの第一の手紙<span lang="EN-US">5</span>章<span lang="EN-US">12</span>節 </b> <span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">1</span>.神さまのまことの恵み<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ペテロは神さまからの一方的な御恵みを味わい、その恵みの中を歩むのが信仰の歩みであペテロって、私もそのようにされた一人なのだと伝えています。恵みあふれる神さまの御手の中にあると確信することで、つらいこともうれしいことも、すべては神さまの最善だと受けとめることができるのです。ペテロは全ての信仰者が同じようにまことの恵みにつつまれた歩みをしてほしいと願っているのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2</span>.神さまによる結びつき<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">この手紙は、ペテロが信頼する協力者シルワノの記述です。支え合える信仰の友との結びつきは、人間的なものを越えたイエス・キリストによる切り離すことのできない関係です。教会も同じです。イエスさまを通して、神さまが選ばれた群れの一人一人を受け入れるのです。そうしてお互いに愛し合い、支え合うことが神さまの御心です。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">3</span>.お互いに大切な存在<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ペテロは「愛の接吻をもって」と言います。これはあなたを本当に大切に思っていますという思いを込めて、あいさつをしなさいということです。イエスさまのお体である教会の一人一人が大切な存在であり、お互いが愛で結びあわされた一つ一つの器官であるからです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;">ペテロ第一の手紙で示されてきたもっとも大切な点、それは神さまだけが正しいこと、神さまのなさることはすべて愛から出ていること、そして神さまはあふるる恵みの神さまであるということです。これはペテロ自身がイエスさまと苦楽を共にし、自らの体験をもとにした強い信頼と期待が込められた彼のあかしなのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p class="MsoNormal"><span style="font-family: inherit;"><span lang="EN-US">2023</span>年<span lang="EN-US">10</span>月<span lang="EN-US">22</span>日 週報より</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>シオンhttp://www.blogger.com/profile/17780497923191377282noreply@blogger.com