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2026年3月29日日曜日

十字架で死なれたイエスさま

聖書箇所 イザヤ書535-12

しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。イザヤ5312

1.民の心変わり

エルサレムに来られたイエスさまを、人々は王として大喜びで迎えました。しかし数日後には「十字架につけよ」と叫びます。人々はローマの圧政から解放する強い王を期待していました。しかし無抵抗で捕らえられるイエスさまの弱々しい姿に失望し、裏切られた気持ちになります。そして指導者たちにあおられて、衝動的な行動を起こしたのです。しかしこれも神さまの救いのご計画でした。

2.イザヤの預言

私たち人は、おのおの自分勝手に神さまを無視して、羊のようにさまよっていました。イエスさまはそんな私たちを神さまの前にとりなしてくださいました。イザヤの預言には、イエスさまが私たちの罪を負い、私たちの罪の犠牲としていのちを献げられることが書かれています。

3.十字架の意味

私たち人は誰もが神さまの前に罪ある者です。十字架は、そんな私たちのためにイエスさまがご自身のいのちを犠牲にしてくださった出来事です。それは私たちが永遠の滅びから救われるためでした。この救いは、自分の罪を認め、悔い改めて(神さまに背をむけて歩む道から神さまの方に向き直って)、イエスさまを信じるすべての人に与えられます。なので十字架は、イエスさまを通して示された神さまの愛の現れです。この愛にこたえて、イエスさまを信じ、信頼して歩みましょう。心から感謝して、すべてお委ねいたしましょう。

2026329日 週報より 

2025年4月20日日曜日

十字架で死なれたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1212-13節、ヨハネ1913-15節、イザヤ535-7節、イザヤ5311節他

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。ペテロ第一の手紙224

1.民の心変わり

エルサレムの人々はイエスさまを大歓迎しました。しかしわずか5日後、人々はイエスさまを「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と叫ぶのです。人々はローマ帝国の支配から解放してくださる強い救い主を求めていました。しかし、権力者たちの前にあまりに弱弱しいイエスさまの姿を見て、裏切られた気持ちが生じたのです。しかしこれもすべては神さまのご計画でした。

2.イザヤの預言

私たち人は神さまを無視して、おのおの自分勝手に生きてきました。これが罪ある人の歩みです。けれども、そんな私たちの罪だらけの生き方(不義)を神さまはイエスさまの上に置かれました(イザヤ53:6)。そしてイエスさまは私たちの罪が赦されるために自ら十字架に架かり、死んでくださいました(イザヤ53:11)。すべてはイザヤの預言のとおり、神さまのご計画に従ってなされたことでした。

3.十字架の意味

イエスさまがなされた人を罪から救う業が十字架です。それは自動的に人を罪から救うものではありません。まず十字架の事実を受け入れ、神さまを無視して歩んでいた自分の罪を認めます。そして悔いあらためます(世から神さまへの方向転換をします)。イエスさまの十字架が自分の罪の救いのためであったと信じて受け入れることによって、この救いが自分のものとなるのです。だれでも信じる者は救われます。


2025
413日 週報より

2025年4月6日日曜日

苦しまれたイエスさま

聖書箇所 マタイ1621節、イザヤ533-5節他

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。イザヤ書535

1.苦しまれたイエスさま

イエスさまは十字架で苦しまれて死なれました。ここから「苦しみ」と「十字架の死」は、一つとして理解されていることが多いように思われます。しかし聖書は、イエスさまの「苦しみ」と「十字架での死」また「復活」にそれぞれ意味があることを明らかにしています。きょうはまず「イエスさまの苦しみ」についてみましょう。

2.イザヤの預言

イザヤは、イエス・キリストが侮られて苦しまれる必要があることを預言しています。十字架にかかる前にイエスさまは、ローマのむちで肉体的な苦しみを受けます。その後ローマの兵士たちから軽蔑され、ばかにされて、精神的苦痛をも受けられます。それは罪人である私たちが受けるべき苦しみをイエスさまが代わって受けてくださったものです。

3.苦しみの意味

聖書の示す罪とは犯罪に限定されません。真の神さまを神として敬わないことや人の持つ悪い心、また自己中心の思いも罪です。全ての人はこの罪を持っているので、神さまから罪の罰としての懲らしめと苦痛を受けなければなりません。イエスさまは、私たちの罪を赦すために私たちの代わりに十字架に架かられました。このイエスさまを信じることで私たちは罪が赦されます。しかし犯した罪のあと(結果)は残ります。そこでイエスさまは、罪の懲らしめをも私たちの代わりにお受けくださいました。イエスさまが「苦しみ」を受けてくださったので、私たちには平安が与えられているのです。

202546日 週報より