2026年8月9日日曜日

キリストにある群れ

聖書箇所 コリント人への第一の手紙1117-34

それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。  コリント1133節より

1.乱れた愛餐

当時は、愛餐と聖餐式が一緒に行われていました。しかしコリント教会では、早めに来た人たちが、先に飲んだり食べたりしていたのです。そうなれば、あとで来た信徒の分は無くなり、酔う者までいる始末でした。互いを思いやる愛が失われていたのです。教会の霊性と秩序は乱れ、神さまに喜ばれる群れではなくなっていました。

2.ただの宴会

パウロは、彼らの愛餐を「神の教会を軽んじ、貧しい人を恥じさせるもの」だと戒めました。本来、愛餐は愛によって持てる人が持ち寄り、キリストにある人々と、食事をともにするものでした。しかしコリント教会では、ただの宴会となり、貧しい人を排除し、恥ずかしめていました。彼らは、教会が一つとされたキリストのからだであり、互いを尊び愛を示す群れであることを忘れていたのです。

3.正しい愛餐

パウロは、正しい愛餐のために「互いに待ちなさい」と勧めます。それは全員で食卓を囲み、一つの群れとして愛を実践するためです。教会は年齢や立場を超えて、キリストにあって一つとされた神さまの共同体です。礼拝や祈り会も、自分のためだけでなく互いを励まし、聖霊の導きを求めて集う時です。私たちが自己中心を捨て、聖霊に従って歩むとき、教会全体が霊的に成長し、神さまの豊かな祝福を受ける群れとなります。そして群れの一人一人も霊的成長とともに大いなる祝福が与えられるのです。

202689日 週報より

2026年8月2日日曜日

神の秩序と教会

聖書箇所 コリント人への第一の手紙112-16

そして、すべてのものは神から出たのである。Ⅰコリント1112

1.創造における神の意図

神さまは、男と女を創造されました。男女は、優劣のある関係ではなく、互いに支え合い一つとなって神さまの栄光を現す存在として造られたのです。それぞれに違う役割が与えられているのは、私たちを縛るためではなく、神さまのご計画を実現するためです。神さまが定められた秩序を大切にするとき、私たちは本来の姿で神さまに仕え、教会も祝福のうちに歩むことができます。

2.権威への反発

コリント教会の問題は、神さまが定められた秩序よりも、自分たちの考えや権利を優先しようとしたことでした。当時の「かぶりもの」は、神さまの権威に従う姿勢を示すものでした。大切なのは「かぶりもの」そのものではなく、神さまの秩序を尊ぶ心です。神さまの秩序に従うことは、人に服従することではありません。神さまへの信頼をあらわしていくことなのです。

3.養われる群として

神さまの前では、男も女も等しく尊い存在です。しかし教会では、それぞれに与えられた役割を尊重し合うことで、群れ全体が建て上げられていきます。神さまの秩序を守ることで、神さまの恵みが注がれて、教会が一つのからだとして成長していきます。私たちが神さまの秩序に従い、神さまの栄光と教会全体のためにと願って歩むとき、神さまにあって教会も一人ひとりも豊かに成長していきます。

202682日 週報より

2026年7月26日日曜日

すべて神の栄光のため

聖書箇所 コリント人への第一の手紙1023-111

だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。コリント1031

1.他の人のことも

キリスト者には、キリストによって罪から解放された自由があります。しかし、その自由を自分のためだけに使うのではなく、自分の言動が周りの人にどのような影響を与えるかを考えることが大切です。「他の人の益」をも求める歩みは人の力には難しいことです。それでもキリスト者は聖霊によって、自分中心の思いから解放され、他の人を愛し、その人のために考えられるようになります。

2.パウロの示す具体例

ここでパウロは、具体的に教えています。通常の市場で売られているものは、神に感謝して受け取れます。しかし、偶像礼拝と明らかに結びついたものは避けなければなりません。また、食事に招かれた時も、相手の良心をつまずかせないように配慮します。自分にとって問題がなくても、相手が誤解したり、つまずいたりするようならば、愛の配慮をもって自分の自由を制限するのです。

3.神の作品として

私たちは神さまの栄光を現す神の作品としてつくられました。しかし、罪が作品を壊してしまったのです。神さまはそんな私たちを、キリストの十字架によって救い、聖霊によって神の作品として日々造り変えてくださっているのです。なので「これは神の栄光を現すか」「これで人にキリストを見てもらうことができるか」と問いながら歩みましょう。罪から解放された主にある自由の中で神さまの栄光を現わすことこそが、キリストにならう者としての歩みなのです。

2026726日 週報より