2025年5月18日日曜日

変化を恐れずに

聖書箇所 マルコによる福音書1412-16

弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。マルコによる福音書1416

1.過越しとイエスさま

過越しの祭は、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放され、神の民とされたことを祝うお祭です。また人々がイエスさまの血で、罪から解放されるひな型(見本)でもありました。イエスさまは弟子たちとの過越の食事で、十字架の意味を教えようとされていました。また食事場所を決めるにあたって、イエスさまが先に起こることをすべて見通せるお方であることを示されたのでした。

2.鈍い反応の弟子たち

この時までに弟子たちは、イエスさまから十字架のことを何度も聞いていました。しかし彼らは本気にしていませんでした。そこで  イエスさまは、起こるすべてを予見できる力を弟子たちに見せられたのです。そしてイエスさまが言われた通りに、十字架の死と復活も必ず起きると弟子たちが悟れるように導かれていました。

3.変化を恐れた弟子たち

それでも彼らは、十字架の死と復活に向き合おうとはしませんでした。イエスさまが変わらずに一緒にいてくださる状況を望みました。それで聞かされていた大きな変化から目をそむけたのです。望まない変化を避けようとする肉の思いが彼らを鈍くしていました。私たちも同じです。変化に踏み出せないのは、困難がすべて取り除かれるまで待とうとするからです。しかし神さまは、導きに従って一歩踏み出した時に困難を取り除いて進む道を開いてくださるのです。神さまを信頼して、導かれている道に一歩踏み出しましょう。

2025518日 週報より

2025年5月11日日曜日

母を敬う

聖書箇所 出エジプト2012節、コリント14節、ヘブル123節他

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。出エジプ記2012

1.神さまのルール

聖書は「盗んではならない」という以上に「父と母を敬う」ことの大切さを教えています。私たちは生まれる時や場所を自分で決められません。いのちは神さまによるものです。自分にいのちがあることを認めれば、いのちの根源である神さまを認めることにもなります。その神さまが置かれた「母を敬う」というルールを尊重し、母親を認め受け入れていくことを神さまは望まれています。

2.慰めてくださるイエスさま

関係の良くない母親を私たちは敬えるでしょうか。実際に母子間には、いたるところに問題があります。それは人と人の間に罪が存在するからです。この罪には自分中心の思いから来る悪い心も含まれます。悪意、偽善、ねたみ、悪口は誰にもある罪です。しかし神さまは、イエスさまを信じることで私たちのすべての罪が赦されること、また私たちが神さまの慰めを受けることを約束されています。そうして私たちは、「母を敬う」ことを全うできるようになります。

3.元気をくださるイエスさま

聖書はこの世が罪に満ちる闇だといいます。そんな世を歩むには、イエスさまを信じて罪の闇から解放される必要があります。私という器は弱くても、その器にイエスさまが力を注いでくださいます。神の力で私たちは元気づけられて、世の闇を神の光とともに歩めるのです。私たちを愛してくださっている神さまを覚えて、神さまから慰めと力をいただきましょう。そして「母を敬い」、お母さまにまた身近な人々に感謝を贈る母の日といたしましょう。

2025511日 週報より

2025年5月4日日曜日

闇を輝かせるイエス

聖書箇所 マルコによる福音書14章1-11節

この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。マルコによる福音書14章8節

1.祭司長や律法学者たちの闇

祭司長たちや律法学者たちは、民たちの心を神さまに向かせるよう指導する立場にありました。しかし今や自分たちの利益を守るために、神さまから遣わされたイエスさまを処刑しようと考えていました。彼らは神さまの前に、自分たちの非を認められませんでした。これが罪であり、人の愚かさそして人の闇です。聖書は私たちにも同じ闇があることを示しています。

2.ひとりの女性に見る光

イエスさまは香油を注いだ女性が、ご自身の葬りの備えをしたと言われました。彼女は自分のできる精一杯でイエスさまにお仕えしようとしました。聖書は、イエスさまが「世の光」だと言います。イエスさまに向けられたた女性の心は、イエスさまの光で満たされました。そしてその心は輝きを増して、喜びであふれていました。

3.ユダに見る闇の強さ

弟子のユダは、この女性よりもずっとイエスさまの近くに居ました。イエスさまに心の闇を拭い去っていただく多くの機会がありました。しかし彼は、ローマ帝国を力で制するイエスさまの姿だけを追い求めていました。そして十字架に向かっていかれるイエスさまに失望しました。ユダは自分から光であるイエスさまを離れ、サタンに付け入る隙を与えて、闇にとらわれていきました。人は自分の闇を認め、イエスさまの光で闇を照らしていただかなければ、闇から離れ、人としての輝きを持って歩むことはできないのです。

2025年5月4日 週報より