Saturday, October 12, 2019

教会の成長と安定

 「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」
                     ヘブル12章14-15節
 教会人の集まりですから、全く波風が立たないと言うことはありませんが、教会の平和は、努めて求められるべきものです。「主をおそれ」とは、罪を避け、神を恐れつつ歩む敬虔さのことを指しています。主をおそれるとは、神さまが天地万物の創造主であり、私達がその被造物であるということを認め、その御前にへりくだることです。また、どんな時にも私達と共にいてくださり、私達の心をはかられるお方として意識しながら、そのお方に相応しく歩むことです。旧約聖書では、主をおそれることは知識のはじめ(箴言1:7)、知恵のもと(箴言9:10)、人の本分(伝道の書12:13)であると語っています。新約聖書ではこれを「信心(新改訳は敬虔」とも表現しています。パウロは、信心こそ《からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。》Ⅰテモテ4:8と位置づけています。「次第に信徒の数を増して行った。」
神さまへの敬虔と聖霊の歩みの結果、信徒の数が増えました。迫害や困難を乗り越えて増えていったのです。企業のように数値目標を立て成長した結果ではなく、神さまのご計画による信徒の増加だったのです。上を見上げて前進しましょう。

イエスこそ救い主

「シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」
                      マタイ16章16-17節

 「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。」(Iコリント3:11-13)
ペテロはイエスさまに出会って、「主よ」(ルカ5:8)その半年後に「神の聖者」(ヨハネ6:69)と呼びました。そしてイエスさまに出会ってから二年半を共に歩んで、霊的に成長したペテロは、イエスさまの「あなた方は私を誰と言うか」の問いに応えて、「あなたこそ生ける神の子キリストです」(16節)
と告白できたのです。主の次のお言葉は、「この事を言い表せたのは、血肉(知識や第六感)ではなく、天にいます私の父(霊的な教え)である」(17節)と言われたのです。この個所についてハーレーは、「ギリシャ語でペテロス=小石とペトラ=大きな岩をかけてペテロに、あなたは確かにペテロ=小石
です。誰でも簡単にあなたを動かすことができます。しかし、
あなたの信仰告白は、山の様に堅固で、動かせないものです。私はその上に教会を建てます」と解説しました。ハレルヤ!

Saturday, September 21, 2019

はばかることなくかっみに近づく
 「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」
            ヘブル10章19-22節
 ヘブル人の手紙の中心的な教えは、イエスさまが唯一絶対のそして全く清い贖い主であるということではないでしょうか。特に、10章19節からは、そのことを強調して、「はばかることなく聖所に入ることができる」と断言してくださっています。その理由として挙げられていることが、主キリストさまはそのために遣わされた神の独り子であられることと、それにふさわしい清さと尊さをお持ちであることが記されています。私達(クリスチャン)は、教会で、礼拝をし交わりの中でこのことを表し続ける者達として、神さまは導いてくださっているのです。(Iヨハネ3:18-19)このことが可能となっているのは、神さまが一人子イエスさまを私達の罪の身代わりとして贖いの供え物として下さったからなのです。(テトス2:14、ヘブル9:12、Iペテロ1:18-19)私達が今霊的に生かされているのは、ひとえにこの十字架の贖いが完成したことによるのです。イエスさまは、神の独り子であり、この地上で人の形をとって十字架の道を完成されたのです。