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2025年6月15日日曜日

尊敬される父とは

聖書箇所 出エジプト記2012節、創世記151-6節、13-16

アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。  創世記156

1.神さまのルール

聖書は「父と母を敬う」ことを神さまの命令として私たちに伝えています。神さまは、ルールに従いなさいと言うだけではなくて、出来るように導きと力を私たちに与えてくださいます。では尊敬される父となるにはどのようにすれば良いでしょうか。聖書の中で信仰の父と言われるアブラハムについて見ていくことにしましょう。

2.アブラハムの信仰

アブラムもいつも神さまに従い歩めたわけではありませんでした。自分の嘘によって彼の妻がエジプト王の妻にされそうになったりもしました。しかしその都度、心を改めて神さまのことばに従い直しました。やがて自分の思い以上に神さまのことばを優先し、信じる者へと変えられていきます。そして神さまの祝福を受け、信仰の父と呼ばれるようになりました。私たちも神さまのことばを重んじて優先していくことで、神さまからの祝福が与えられます。

3.人からの尊敬

アブラハムは普通の人で失敗もありました。でもすぐに改めて神さまのことばを握りしめて歩んでいきます。そうすることで神さまから契約を結ばれるほどに信頼されるようになりました。神さまに信頼され用いられる人は、周りの人からも厚い信頼と尊敬を得ることができます。自分の考え以上に神さまのことばである聖書に従う人、また従いたいと願い続ける人は、神さまからも人からも信頼されていきます。そしてアブラハムのように尊敬される父(尊敬される人)となることができるのです。

2025615日 週報より

2025年6月8日日曜日

イエスさまの深い悲しみ

聖書箇所 マルコによる福音書1432-34

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。マルコによる福音書1434

1.祈りの依頼

イエスさまは「悲しみのあまり死ぬほど」と弟子たちに言われます。そしてあなたがたの祈りで支えて欲しいと願われました。その人の立場に立って祈る祈りがとりなしの祈りです。とりなす人を通して、神さまの力が祈られる相手に働きます。そして霊を励まし、力づけ、大きな戦いをも乗り越える力を与えます。イエスさまはこのとりなしの祈りを弟子たちにお願いされたのです。

2.死ぬほどの悲しみ

イエスさまは、「悲しみのあまり死ぬほど」に悩み苦しまれていました。それは単に十字架による死への恐れではありませんでした。イエスさまは父なる神さまとは互いに愛し合う親子の関係です。しかしイエスさまが全人類の罪を負って罪人となることで、罪を嫌う神さまからこの上もなく憎まれます。親子の関係が絶ち切られて、罪の罰として十字架で死に追いやられるのです。これがイエスさまにとって身を引き裂くような悲しみとなっていました。

3.弱弱しい姿

私たちはイエスさまの弱弱しく見える姿から、自分の罪の大きさを見て心に刻む必要があります。また同時に私たちに向けられているイエスさまの大いなる愛を見るのです。深い悲しみでこれ以上ない弱さを経験されたイエスさまは、私たちのすべての弱さをご存知です。そのイエスさまが、今日も明日もいつまでも私たちを最善に導いてくださいます。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」という約束を握りしめて、イエスさまと共に歩みましょう。

202568日 週報より


2025年6月1日日曜日

私の弱さを知る神

聖書箇所 マルコによる福音書1426-31

しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に ガリラヤへ行くであろう」。マルコによる福音書1428

1.散らされる羊

イエスさまは、「羊飼いであるわたし(イエス)を神さまが打たれることによって、羊である弟子のあなたがたは散り散りにされる」と言われました。この先弟子たちが皆、イエスさまを置いて逃げてしまうことを予告されているのです。それでも尚、弟子たちをあわれまれるイエスさまの愛の大きさがここで示されています。これは弟子たちが信仰にとどまり続けるための備えとなっているのです。

2.羊飼いなるイエス

イエスさまは、「よみがえってから先にガリラヤに行く」と言われています。また「わたしはあなたがたの弱さをすべて知っています。弱さゆえに散らされたあなたがたをわたしは決して責めません。あなたがたを訓練してきたあのガリラヤで待っています」と言われます。ここで集められた弟子たちは、大いに励ましを受けて、キリストの復活の証人として遣わされていきます。

3.羊の弱さを知る羊飼い

ペテロは自分の頑張りで乗り越えることができると信じて、「私は決してつまずきません」と言います。しかしイエスさまは、「今夜、三度わたしを知らないと言ってあなたも必ずつまずきます」と言われました。果たしてペテロはその通りに自分の弱さを痛感させられます。しかしすべてをご存じでいながら、愛し続けてくださっているイエスさまを思い起こして、イエスさまに立ち帰るのです。私たちも「主のあわれみと愛によって、弱い自分が信仰の歩みを続けられているのだ」といつも心にとどめておくことが大切です。

202561日 週報より

2025年5月25日日曜日

神さまからの贈り物

聖書箇所 マルコによる福音書1417-25

イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」。マルコによる福音書1424

1.ユダを追い求めたイエスさま

イエスさまは、弟子の1人がイエスさまを裏切ると言われました。この時他の弟子たちは、ユダの裏切りを悟れませんでした。  イエスさまはユダだけにわかるように、そして他の弟子たちが知って騒がないようにされたのです。ユダにイエスさまに立ち帰るためのチャンスを与えるためです。イエスさまは私たちを愛して、どこまでも追い求め続けてくださるお方なのです。

2.与えられている信仰

この時点でもイエスさまは、ユダに対して愛の御手をのばされ、愛あるお声がけを続けておられました。しかしユダはその御手をはねのけて、自分から滅びの道を選んだのです。このように神さまは、私たちが悟れるように思いを与えて、導き続けてくださいます。  私たちの信仰は、神さまからの働きかけ、神さまからの贈り物なのです。信仰は人の知恵や人の理屈で納得していくものではありません。私たちはただ信じて受け取るだけで良いのです。

3.キリストのからだと血

キリストのからだをいただき、キリストの血を飲むとは象徴的な表現です。これは罪の赦しと、神さまとの関係の回復を喜ぶことです。そしてキリストの花嫁として、イエスさまのお体の一部分とされていることです。この意味と大切さを人の頭で完全に理解し、  納得するのは難しいでしょう。そこで神さまは聖霊を与えてくださいました。聖霊が私たちの理解を助け、神さまが与えられる信仰に立てるようにしてくださるのです。

2025525日 週報より

2025年5月18日日曜日

変化を恐れずに

聖書箇所 マルコによる福音書1412-16

弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。マルコによる福音書1416

1.過越しとイエスさま

過越しの祭は、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放され、神の民とされたことを祝うお祭です。また人々がイエスさまの血で、罪から解放されるひな型(見本)でもありました。イエスさまは弟子たちとの過越の食事で、十字架の意味を教えようとされていました。また食事場所を決めるにあたって、イエスさまが先に起こることをすべて見通せるお方であることを示されたのでした。

2.鈍い反応の弟子たち

この時までに弟子たちは、イエスさまから十字架のことを何度も聞いていました。しかし彼らは本気にしていませんでした。そこで  イエスさまは、起こるすべてを予見できる力を弟子たちに見せられたのです。そしてイエスさまが言われた通りに、十字架の死と復活も必ず起きると弟子たちが悟れるように導かれていました。

3.変化を恐れた弟子たち

それでも彼らは、十字架の死と復活に向き合おうとはしませんでした。イエスさまが変わらずに一緒にいてくださる状況を望みました。それで聞かされていた大きな変化から目をそむけたのです。望まない変化を避けようとする肉の思いが彼らを鈍くしていました。私たちも同じです。変化に踏み出せないのは、困難がすべて取り除かれるまで待とうとするからです。しかし神さまは、導きに従って一歩踏み出した時に困難を取り除いて進む道を開いてくださるのです。神さまを信頼して、導かれている道に一歩踏み出しましょう。

2025518日 週報より

2025年5月11日日曜日

母を敬う

聖書箇所 出エジプト2012節、コリント14節、ヘブル123節他

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。出エジプ記2012

1.神さまのルール

聖書は「盗んではならない」という以上に「父と母を敬う」ことの大切さを教えています。私たちは生まれる時や場所を自分で決められません。いのちは神さまによるものです。自分にいのちがあることを認めれば、いのちの根源である神さまを認めることにもなります。その神さまが置かれた「母を敬う」というルールを尊重し、母親を認め受け入れていくことを神さまは望まれています。

2.慰めてくださるイエスさま

関係の良くない母親を私たちは敬えるでしょうか。実際に母子間には、いたるところに問題があります。それは人と人の間に罪が存在するからです。この罪には自分中心の思いから来る悪い心も含まれます。悪意、偽善、ねたみ、悪口は誰にもある罪です。しかし神さまは、イエスさまを信じることで私たちのすべての罪が赦されること、また私たちが神さまの慰めを受けることを約束されています。そうして私たちは、「母を敬う」ことを全うできるようになります。

3.元気をくださるイエスさま

聖書はこの世が罪に満ちる闇だといいます。そんな世を歩むには、イエスさまを信じて罪の闇から解放される必要があります。私という器は弱くても、その器にイエスさまが力を注いでくださいます。神の力で私たちは元気づけられて、世の闇を神の光とともに歩めるのです。私たちを愛してくださっている神さまを覚えて、神さまから慰めと力をいただきましょう。そして「母を敬い」、お母さまにまた身近な人々に感謝を贈る母の日といたしましょう。

2025511日 週報より

2025年5月4日日曜日

闇を輝かせるイエス

聖書箇所 マルコによる福音書14章1-11節

この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。マルコによる福音書14章8節

1.祭司長や律法学者たちの闇

祭司長たちや律法学者たちは、民たちの心を神さまに向かせるよう指導する立場にありました。しかし今や自分たちの利益を守るために、神さまから遣わされたイエスさまを処刑しようと考えていました。彼らは神さまの前に、自分たちの非を認められませんでした。これが罪であり、人の愚かさそして人の闇です。聖書は私たちにも同じ闇があることを示しています。

2.ひとりの女性に見る光

イエスさまは香油を注いだ女性が、ご自身の葬りの備えをしたと言われました。彼女は自分のできる精一杯でイエスさまにお仕えしようとしました。聖書は、イエスさまが「世の光」だと言います。イエスさまに向けられたた女性の心は、イエスさまの光で満たされました。そしてその心は輝きを増して、喜びであふれていました。

3.ユダに見る闇の強さ

弟子のユダは、この女性よりもずっとイエスさまの近くに居ました。イエスさまに心の闇を拭い去っていただく多くの機会がありました。しかし彼は、ローマ帝国を力で制するイエスさまの姿だけを追い求めていました。そして十字架に向かっていかれるイエスさまに失望しました。ユダは自分から光であるイエスさまを離れ、サタンに付け入る隙を与えて、闇にとらわれていきました。人は自分の闇を認め、イエスさまの光で闇を照らしていただかなければ、闇から離れ、人としての輝きを持って歩むことはできないのです。

2025年5月4日 週報より


2025年4月27日日曜日

目をさましていなさい

聖書箇所 マルコによる福音書1328-37

目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。マルコによる福音書1333

1.世の終りの希望

イエスさまはいちじくの木のたとえで、世の終りにではなく、世の終りに来られる再臨のキリストに注目するようにと教えています。「順序だって、すべてが起ってしまうまでは世の終りは来ない。だからあわてないようにしなさい。神さまの深いご計画に信頼を寄せて、来ようとしている神さまの恵みに目を向けるようにしなさい」と言われています。

2.永遠と結びつく人生

私たちは、世の終りが来て、天地が崩れ去れば、私たちを支えるすべてが無くなると考えます。しかしそうではありません。神さまは約束されたとおりに、信じる私たちを滅びから救いへと引き上げて、永遠へとつながる道に置いてくださいます。そして永遠の御国に入るまで確実に導いてくださるのです。キリストの福音とは、私たちに永遠と結びついた人生が与えられることであって、この事実は何が起こっても決して失われることはありません。

3.目をさましている

目をさましているとは、霊の目を開いておくことです。しかし何か特別なことをしなければならないのではありません。神さまの戒めに従い歩めば良いのです。そしてそれは、神さまを愛し、礼拝をお献げし、兄弟姉妹や隣人を愛していくことです。このようにして霊の目をさましている者は、世の終りを恐れることはないのです。世の終りこそが、神さまの約束が果たされる恵みの時と捉えて、そこにある希望をいつでも見続けてまいりましょう。

2025427日 週報より 

2025年4月20日日曜日

復活されたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1932-34節、ヨハネ201-2節、19-21節、コリント1517節、20-22節他

もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。  コリント人への第一の手紙1517

1.イエスさまのよみがえり(復活)

聖書は、十字架上でのイエスさまの完全な死を記しています(ヨハネ19:32-34)。イエスさまは仮死状態で蘇生されたのではなく、完全に死なれた後、三日目に復活されたのです。弟子たちやお仕えしていた女性たちは、復活について事前にイエスさまから聞かされていました。そして実際に空になったお墓を目撃しました。しかし彼らもはじめはイエスさまの復活を理解出来ませんでした。

2.復活のイエスさまに会った弟子たち

この後、復活を信じられない弟子たちの所に、イエスさまが直接来られました。イエスさまの「安かれ」とのなつかしい声を聞いて、弟子たちはようやくイエスさまの復活を確信しました。そしてイエスさまの復活の証人として用いられていきます。

3.復活の意味

聖書は、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである(Ⅰコリント15:20)」と言います。初穂とは、作物の最初の収穫です。初穂が良ければ収穫も良いのです。イエス・キリストを信じる者は、このキリストの良い初穂(復活)に倣い、死んでも生きる者とされます。信じた私たちは、肉体が滅んだあとも霊において生き続けるのです。そして御国で相応しい体が与えられて、イエスさまとともに永遠に生きます。イエスさまの復活は、イエスさまを信じる者を死の恐怖から解放し、この世の勝利者とすることへの絶対的な裏付けなのです。

2025420日 週報より

十字架で死なれたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1212-13節、ヨハネ1913-15節、イザヤ535-7節、イザヤ5311節他

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。ペテロ第一の手紙224

1.民の心変わり

エルサレムの人々はイエスさまを大歓迎しました。しかしわずか5日後、人々はイエスさまを「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と叫ぶのです。人々はローマ帝国の支配から解放してくださる強い救い主を求めていました。しかし、権力者たちの前にあまりに弱弱しいイエスさまの姿を見て、裏切られた気持ちが生じたのです。しかしこれもすべては神さまのご計画でした。

2.イザヤの預言

私たち人は神さまを無視して、おのおの自分勝手に生きてきました。これが罪ある人の歩みです。けれども、そんな私たちの罪だらけの生き方(不義)を神さまはイエスさまの上に置かれました(イザヤ53:6)。そしてイエスさまは私たちの罪が赦されるために自ら十字架に架かり、死んでくださいました(イザヤ53:11)。すべてはイザヤの預言のとおり、神さまのご計画に従ってなされたことでした。

3.十字架の意味

イエスさまがなされた人を罪から救う業が十字架です。それは自動的に人を罪から救うものではありません。まず十字架の事実を受け入れ、神さまを無視して歩んでいた自分の罪を認めます。そして悔いあらためます(世から神さまへの方向転換をします)。イエスさまの十字架が自分の罪の救いのためであったと信じて受け入れることによって、この救いが自分のものとなるのです。だれでも信じる者は救われます。


2025
413日 週報より

2025年4月6日日曜日

苦しまれたイエスさま

聖書箇所 マタイ1621節、イザヤ533-5節他

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。イザヤ書535

1.苦しまれたイエスさま

イエスさまは十字架で苦しまれて死なれました。ここから「苦しみ」と「十字架の死」は、一つとして理解されていることが多いように思われます。しかし聖書は、イエスさまの「苦しみ」と「十字架での死」また「復活」にそれぞれ意味があることを明らかにしています。きょうはまず「イエスさまの苦しみ」についてみましょう。

2.イザヤの預言

イザヤは、イエス・キリストが侮られて苦しまれる必要があることを預言しています。十字架にかかる前にイエスさまは、ローマのむちで肉体的な苦しみを受けます。その後ローマの兵士たちから軽蔑され、ばかにされて、精神的苦痛をも受けられます。それは罪人である私たちが受けるべき苦しみをイエスさまが代わって受けてくださったものです。

3.苦しみの意味

聖書の示す罪とは犯罪に限定されません。真の神さまを神として敬わないことや人の持つ悪い心、また自己中心の思いも罪です。全ての人はこの罪を持っているので、神さまから罪の罰としての懲らしめと苦痛を受けなければなりません。イエスさまは、私たちの罪を赦すために私たちの代わりに十字架に架かられました。このイエスさまを信じることで私たちは罪が赦されます。しかし犯した罪のあと(結果)は残ります。そこでイエスさまは、罪の懲らしめをも私たちの代わりにお受けくださいました。イエスさまが「苦しみ」を受けてくださったので、私たちには平安が与えられているのです。

202546日 週報より

2025年3月30日日曜日

終りの日への備え

聖書箇所 マルコによる福音書1314-27

だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。マルコによる福音書1323

1.終わりの時の正しい行動

世の終りの時には、後戻りせずに山に逃げるように教えられています。これは世の人々の混乱に巻き込まれないように、そして信仰を保つようにするためでしょう。世の終りの苦難は、かつて人類が経験したことのない、想像を絶する規模で起こります。しかし信仰者のためにその期間は縮められます。神さまは最後まで信じる者を支え、助けあげてくださるお方です。

2.呼び集められる信仰者

イエス・キリストは、終りの時に再び地上に来られます。そして信仰者、また信じて召された人々を呼び集めて、神さまの恵みの中に置いてくださるのです。信じる者は世の終りまでもまたその先も神さまから与えられる恵みを期待して良いのです。信じた私たちは、神さまからの言葉か、世から出た言葉かを見極めて、にせキリストやにせ預言者に惑わされないようにしなければなりません。

3.信仰者としての備え

終りの時の信仰者の備えとして、4つ語られています。これは今の私たちにも大切です。世のうわさや出来事に惑わされないで信仰を保つこと。最後には神さまの支えと助けがあることを確信すること。にせキリスト、にせ預言者は必ず現れること。再臨のイエスさまとともにいる恵みを覚え、期待と希望を持ち続けること。こうして信仰者は、どのような状況にあっても、神さまの恵みから決して漏れることはないと確信して歩むことができるのです。

2025330日 週報より

2025年3月23日日曜日

神との二人三脚

聖書箇所 マルコによる福音書139-13

また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。マルコによる福音書1313

1.証しするキリスト者

救われた者は、神さまの証し人となります。そして証しをする中で、世からの反発があることも言われています。しかしこのような状況をも神さまは用いられます。それはすべての人々に救いのチャンスを与えるためです。これを聞いて、心を重くする必要はありません。神さまを愛し、兄弟姉妹を愛し、隣人を愛そうと願い歩めば良いのです。あとは神さまが守りと導きを与えてくださいます。

2.証しする聖霊

証しと聞いて何をどう話せばよいかと不安を覚える人は多いかもしれません。でもイエスさまは「思いわずらう必要はない」と教えておられます。信じた私たちには聖霊の助けがあって、お言葉から霊の力が与えられるのです。それで私たちの言葉には聖霊の力が感じられ、聞く相手がその力を受けとめて信じることができるように導かれるのです。すぐに信じることができなくても何かが違うと感じるのです。これが聖霊による証しです。

3.同伴くださる神

私たちが信じて歩み、証しをすることで、世からの反発が必ず起きてきます。だからこそ神さまは証し人の私たちを一人で放置されることはなさいません。神さまは私たちと二人三脚で歩まれます。それは神さまが共に悩み、助け、あわれんでくださり、私たちにその恵みを味あわせてくださる素晴らしい歩みなのです。

2025323日 週報より

2025年3月16日日曜日

あわてないで

聖書箇所 マルコによる福音書131-8

また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。マルコによる福音書137

1.神殿に目をとめた弟子

弟子のひとりは、すばらしい神殿の外観に目が奪われています。神さまのご臨在を示す神殿も、外観だけに目を奪われるなら神さまへの信仰は妨げられます。イエスさまは、神殿の崩壊を預言されています。神殿にすがる弟子たちの思いをイエスさまを神殿とする信仰に向けさせるためでした。私たちも外観や雰囲気によらずに見えない神さまに心を向けることが大切です。

2.前兆を知りたがる弟子

四人の弟子は、神殿の崩壊についてイエスさまに尋ねます。神殿崩壊で信仰の土台も崩れるとの恐れがあったのです。「それは困ります。前もって知っていないと不安です」と自分たちの思いだけで聞いています。これではイエスさまが伝えようとした真意を受けとめることができません。いつも聖霊を意識して、お言葉からそこにある神さまのお心を求めることを教えられています。

3.前兆を語られたイエスさま

イエスさまは、終わりの時の前触れを明らかにされています。多くの偽キリストの出現や戦争、自然災害が起こると言われます。まさに現在の世界を見ているようで、私たちも不安になります。しかし、イエスさまは「あわてるな」と言われています。終わりの日は、確実にやってきます。イエスさまを信じ救われた者は何をも恐れることはありません。神の御手の守りがどこまでもあり、終りの日が私たちの恵みの時となるからです。それが神さまの約束です。

2025316日 週報より

2025年3月9日日曜日

困難の中で神を喜ぶ

聖書箇所 詩篇131-6

しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。詩篇135

1.神への訴え

1-2節では、耐え難い状況の作者が、神さまに「いつまで」と訴えています。作者が苦しんでいるのは、神さまから見放されたとの思い、からだも心も疲れ果てていること、神さまが自分の敵を味方しているように感じていることでした。神さまは信仰者を見放すお方ではありません。作者はもがき苦しむ中で、信仰を働かすことができずにこのように感じていたのでしょう。しかしその状況を隠さず訴えて、神さまに全力でぶつかっています。

2.神への願い

3-4節は神さまへの願いです。どん底の状況のままで神さまに向き合った結果、信仰が働き始めました。神さまは必ず祈りに応えてくださるとの思いが強められ、祈りに導かれています。どんな苦しみによっても信仰が完全に消されることはありません。そしてどのような状況でもそのままの自分で神さまに向かえば、神さまへの信頼が回復し、自然に祈りへと導かれるのです。

3.神への感謝

5-6節では、これまでの訴えと願いが、感謝と告白に変えられています。作者は祈る中で、神さまのいつくしみに満たされました。祈りの結果を見なくても、神さまは最善に導いてくださるとの思いが強められたのです。そして心が悲しみから喜びに変えられていきました。神さまは信じた者を決して忘れることのないお方です。決して見捨てず、最後まで責任を持って守り導いてくださいます。

202539日 週報より

2025年3月2日日曜日

余りものでなく

聖書箇所 マルコによる福音書1241-44

よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。マルコによる福音書1243

1.貧しいやもめの献金

イエスさまは人々が献金する様子を見ておられました。その時、貧しいやもめがレプタ2枚(今の日本で160円相当)を献金の箱に入れました、彼女は人目を気にせずに、神さまだけを見て一心に献げていました。それは自分の目いっぱいをひたすら神さまへの信仰によって献げている姿でした。

2.信仰を献げたやもめ

彼女はこの時、2 レプタを献げました。それは彼女の生活費のすべてでした。しかし彼女にとっては神さまに献げるという行為そのものが何より大切だったのです。必要を満たしてくださる神さまを信頼しきっていたから、持てる2レプタすべてを献げることができたのです。彼女は神さまへの信頼を献げました。これは決して「生活費全額を献げよ」との勧めではありません。日々必要をすべて満たしてくださる神さまへの信頼を私たちに問われているのです。

3.献金に見る礼拝の姿勢

イエスさまは貧しいやもめの献金の姿を通して、礼拝について教えておられます。礼拝とはこの女性のように神さまの前に自分のすべてを差し出して献げることです。自分の生活の一部や余った部分をもって献げるのではありません。自分の思い、自分の体、自分の時間を献げて神さまの前に立つことを神さまが喜ばれます。神さまがその信仰に慰めや励ましを与え、祝福と助けをくださるのです。

202532日 週報より 

2025年2月23日日曜日

偽善を避けるには

聖書箇所 マルコによる福音書12章38-40節

イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。マルコによる福音書12章38節

1.律法学者の偽善

律法学者たちの多くは、「長い衣を着て歩き」、「広場であいさつされることや会場の上座を好み」、「未亡人となった人たちにもてなすように要求し」、「人前で長い祈り」をしていました。民たちはそんな彼らから指導を受けていました。イエスさまは民たちに、彼らのような見せかけだけの偽善的信仰者にならないようにと話されていたのです。

2.肉の思いとサタンの介入

律法学者たちは熱心な信仰者になろうとしていました。しかし自分たちの土台をこの世にしっかりと置いたままでした。この世のことだけに心を置いて、肉の欲の思うままに行動していました。そうすると心は神さまにではなく人の方にばかり向くようになります。人の目を気にして行動するところにサタンが働きます。彼らはこの在り方が神さまに喜ばれていると思い込むようにされていました。

3.偽善に誘うもの

私たちを偽善に誘うものは、「人目を気にして、人を見ようとする目」です。もちろん人のことを気にかけて思いやることや人との調和は大切です。ただ、何をするにも人からよく見られることが最大の関心事になると、肉の思いに支配されます。そこにサタンも働いて偽善的振舞いをするようになってしまうのです。誰でもイエスさまを信じれば、神さまの愛と神さまに愛されていることが分かります。神さまの愛で満たされることで、人目を気にして行動しようとする肉の思いを満足させる必要はなくなります。

2025年2月23日 週報より

2025年2月16日日曜日

キリストとは

聖書箇所 マルコによる福音書12章35-37節

このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか。マルコによる福音書12章37 節

1.民たちの願う救い主

 イエスさまは「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか」と律法学者たちの教えに疑問を投げかけています。律法学者たちは、救い主であるキリストがダビデ王のように力でローマ帝国から解放してくださると考えていました。しかし彼らは聖書が示すキリストの一面しか見ずに、自分たちの都合の良いようにキリストを解釈し、それを民に教えていたのです。

2.罪からの救い主

イエスさまはダビデの詩篇を引用されました。それはキリストがダビテにとって我が主であって、ダビデの子孫というだけではないということでした。キリストは私たちを罪から解放して、神さまと私たちの平和を導く霊的な王として来られたのです。イエスさまは「今待ち望むべきキリストはこの罪からの救い主なのだ」と、彼らを正しい理解へと導こうとされていました。

3.真の喜びを与える救い主

確かにキリストは王として私たちをご支配(守りと導きを)くださいます。私たちを罪から救い、魂に平安を与える王になられたのです。やがてこの世が終りを迎える時、私たちを守り導く神の国の王として来られます。私たちはこの王なるイエス・キリストを土台として、自分の人生を建て上げることが大切です。イエスさまを信じるだけで、王なるイエスさまの守りと導きをいただいて、人としての真の喜びの人生を歩むことができるのです。

2025年2月16日 週報より


2025年2月9日日曜日

大切な霊の思い

聖書箇所 マルコによる福音書1228-34

また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。マルコによる福音書1233

1.律法学者の質問

一人の律法学者がイエスさまの巧みな回答に感心して、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と質問をします。彼は律法の専門家であることを誇らず、自分の立場にもこだわらない低い心の人でした。それは神さまの前に正しくありたいという霊の思いを大切にしていたからでしょう。彼は肉の思いの上にこの霊の思いを置いて、人を見ずに神さまを見て歩んでいました。

2.律法学者の応答

この質問にイエスさまは「神さまのお心は、あなたがたが神さまを愛し、隣人を愛することだ」と答えられます。この律法学者もイエスさまと同じ思いがあったので、「すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」とすぐに応答できました。イエスさまのお言葉が、彼の中にある霊の思いを引き出したのです。私たちも彼のように霊の思いで反応する信仰者でありたいと思わされます。

3.ほめられた律法学者

イエスさまはこの律法学者をほめました。それは「あなたの答えは、神さまが語らせてくださったものだ」と悟らせるためであったと考えられます。信じた私たちは、「神さまに従います、従えるように導いてください」と願い求めて、自分自身を明け渡していくことが大切です。そうすれば、霊の思いによって神さまが語らせてくださり、そこにある神さまのお心を理解することができるのです。

20252月に9日 週報より

2025年2月2日日曜日

復活の信仰に生きる

聖書箇所 マルコによる福音書1218-27

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている。マルコによる福音書1227

1.サドカイ人の思い違い

復活を信じないサドカイ人たちが登場します。そして次々に亡くなった兄弟7人全員が、律法の定めに従い1人の女性を妻にする話をします。「復活があるとすれば、7人が同時に1人の女性を妻に持つことになり、それは律法違反となるので復活はない」との主張です。イエスさまは、「復活は世の状況を引き継がない」と彼らの思い違いを指摘されます。理屈での理解は、信仰の歩みを妨げるのです。

2.永遠に生きる者の神

さらにイエスさまは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコプの神」と現在形で語られているお言葉を引用されます。彼らは復活により永遠に生きる信仰者であって、神さまは彼らの神であり続けると言います。イエスさまを信じるだけで永遠のいのちが与えられ、イエスさまが神であり続けてくださるのです。

3.復活のイエスさまからの働きかけ

十字架で死んで葬られたイエスさまの復活は、誰も否定できない歴史の事実です。イエスさまを信じることは、復活を信じることです。イエスさまは天に戻られた今も私たちの生活のあらゆる面で共にいてくださり、支えつづけてくださっています。私たちはこの復活の信仰の中に生かされています。そしてやがて死も涙も痛みも叫びもない天国に帰るのです。これがこの世のどんな状況にあっても消えることのない私たち信仰者の希望なのです。

202522日 週報より