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2025年4月27日日曜日

目をさましていなさい

聖書箇所 マルコによる福音書1328-37

目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。マルコによる福音書1333

1.世の終りの希望

イエスさまはいちじくの木のたとえで、世の終りにではなく、世の終りに来られる再臨のキリストに注目するようにと教えています。「順序だって、すべてが起ってしまうまでは世の終りは来ない。だからあわてないようにしなさい。神さまの深いご計画に信頼を寄せて、来ようとしている神さまの恵みに目を向けるようにしなさい」と言われています。

2.永遠と結びつく人生

私たちは、世の終りが来て、天地が崩れ去れば、私たちを支えるすべてが無くなると考えます。しかしそうではありません。神さまは約束されたとおりに、信じる私たちを滅びから救いへと引き上げて、永遠へとつながる道に置いてくださいます。そして永遠の御国に入るまで確実に導いてくださるのです。キリストの福音とは、私たちに永遠と結びついた人生が与えられることであって、この事実は何が起こっても決して失われることはありません。

3.目をさましている

目をさましているとは、霊の目を開いておくことです。しかし何か特別なことをしなければならないのではありません。神さまの戒めに従い歩めば良いのです。そしてそれは、神さまを愛し、礼拝をお献げし、兄弟姉妹や隣人を愛していくことです。このようにして霊の目をさましている者は、世の終りを恐れることはないのです。世の終りこそが、神さまの約束が果たされる恵みの時と捉えて、そこにある希望をいつでも見続けてまいりましょう。

2025427日 週報より 

2025年4月20日日曜日

復活されたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1932-34節、ヨハネ201-2節、19-21節、コリント1517節、20-22節他

もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。  コリント人への第一の手紙1517

1.イエスさまのよみがえり(復活)

聖書は、十字架上でのイエスさまの完全な死を記しています(ヨハネ19:32-34)。イエスさまは仮死状態で蘇生されたのではなく、完全に死なれた後、三日目に復活されたのです。弟子たちやお仕えしていた女性たちは、復活について事前にイエスさまから聞かされていました。そして実際に空になったお墓を目撃しました。しかし彼らもはじめはイエスさまの復活を理解出来ませんでした。

2.復活のイエスさまに会った弟子たち

この後、復活を信じられない弟子たちの所に、イエスさまが直接来られました。イエスさまの「安かれ」とのなつかしい声を聞いて、弟子たちはようやくイエスさまの復活を確信しました。そしてイエスさまの復活の証人として用いられていきます。

3.復活の意味

聖書は、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである(Ⅰコリント15:20)」と言います。初穂とは、作物の最初の収穫です。初穂が良ければ収穫も良いのです。イエス・キリストを信じる者は、このキリストの良い初穂(復活)に倣い、死んでも生きる者とされます。信じた私たちは、肉体が滅んだあとも霊において生き続けるのです。そして御国で相応しい体が与えられて、イエスさまとともに永遠に生きます。イエスさまの復活は、イエスさまを信じる者を死の恐怖から解放し、この世の勝利者とすることへの絶対的な裏付けなのです。

2025420日 週報より

十字架で死なれたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1212-13節、ヨハネ1913-15節、イザヤ535-7節、イザヤ5311節他

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。ペテロ第一の手紙224

1.民の心変わり

エルサレムの人々はイエスさまを大歓迎しました。しかしわずか5日後、人々はイエスさまを「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と叫ぶのです。人々はローマ帝国の支配から解放してくださる強い救い主を求めていました。しかし、権力者たちの前にあまりに弱弱しいイエスさまの姿を見て、裏切られた気持ちが生じたのです。しかしこれもすべては神さまのご計画でした。

2.イザヤの預言

私たち人は神さまを無視して、おのおの自分勝手に生きてきました。これが罪ある人の歩みです。けれども、そんな私たちの罪だらけの生き方(不義)を神さまはイエスさまの上に置かれました(イザヤ53:6)。そしてイエスさまは私たちの罪が赦されるために自ら十字架に架かり、死んでくださいました(イザヤ53:11)。すべてはイザヤの預言のとおり、神さまのご計画に従ってなされたことでした。

3.十字架の意味

イエスさまがなされた人を罪から救う業が十字架です。それは自動的に人を罪から救うものではありません。まず十字架の事実を受け入れ、神さまを無視して歩んでいた自分の罪を認めます。そして悔いあらためます(世から神さまへの方向転換をします)。イエスさまの十字架が自分の罪の救いのためであったと信じて受け入れることによって、この救いが自分のものとなるのです。だれでも信じる者は救われます。


2025
413日 週報より

2025年4月6日日曜日

苦しまれたイエスさま

聖書箇所 マタイ1621節、イザヤ533-5節他

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。イザヤ書535

1.苦しまれたイエスさま

イエスさまは十字架で苦しまれて死なれました。ここから「苦しみ」と「十字架の死」は、一つとして理解されていることが多いように思われます。しかし聖書は、イエスさまの「苦しみ」と「十字架での死」また「復活」にそれぞれ意味があることを明らかにしています。きょうはまず「イエスさまの苦しみ」についてみましょう。

2.イザヤの預言

イザヤは、イエス・キリストが侮られて苦しまれる必要があることを預言しています。十字架にかかる前にイエスさまは、ローマのむちで肉体的な苦しみを受けます。その後ローマの兵士たちから軽蔑され、ばかにされて、精神的苦痛をも受けられます。それは罪人である私たちが受けるべき苦しみをイエスさまが代わって受けてくださったものです。

3.苦しみの意味

聖書の示す罪とは犯罪に限定されません。真の神さまを神として敬わないことや人の持つ悪い心、また自己中心の思いも罪です。全ての人はこの罪を持っているので、神さまから罪の罰としての懲らしめと苦痛を受けなければなりません。イエスさまは、私たちの罪を赦すために私たちの代わりに十字架に架かられました。このイエスさまを信じることで私たちは罪が赦されます。しかし犯した罪のあと(結果)は残ります。そこでイエスさまは、罪の懲らしめをも私たちの代わりにお受けくださいました。イエスさまが「苦しみ」を受けてくださったので、私たちには平安が与えられているのです。

202546日 週報より

2025年3月30日日曜日

終りの日への備え

聖書箇所 マルコによる福音書1314-27

だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。マルコによる福音書1323

1.終わりの時の正しい行動

世の終りの時には、後戻りせずに山に逃げるように教えられています。これは世の人々の混乱に巻き込まれないように、そして信仰を保つようにするためでしょう。世の終りの苦難は、かつて人類が経験したことのない、想像を絶する規模で起こります。しかし信仰者のためにその期間は縮められます。神さまは最後まで信じる者を支え、助けあげてくださるお方です。

2.呼び集められる信仰者

イエス・キリストは、終りの時に再び地上に来られます。そして信仰者、また信じて召された人々を呼び集めて、神さまの恵みの中に置いてくださるのです。信じる者は世の終りまでもまたその先も神さまから与えられる恵みを期待して良いのです。信じた私たちは、神さまからの言葉か、世から出た言葉かを見極めて、にせキリストやにせ預言者に惑わされないようにしなければなりません。

3.信仰者としての備え

終りの時の信仰者の備えとして、4つ語られています。これは今の私たちにも大切です。世のうわさや出来事に惑わされないで信仰を保つこと。最後には神さまの支えと助けがあることを確信すること。にせキリスト、にせ預言者は必ず現れること。再臨のイエスさまとともにいる恵みを覚え、期待と希望を持ち続けること。こうして信仰者は、どのような状況にあっても、神さまの恵みから決して漏れることはないと確信して歩むことができるのです。

2025330日 週報より

2025年3月23日日曜日

神との二人三脚

聖書箇所 マルコによる福音書139-13

また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。マルコによる福音書1313

1.証しするキリスト者

救われた者は、神さまの証し人となります。そして証しをする中で、世からの反発があることも言われています。しかしこのような状況をも神さまは用いられます。それはすべての人々に救いのチャンスを与えるためです。これを聞いて、心を重くする必要はありません。神さまを愛し、兄弟姉妹を愛し、隣人を愛そうと願い歩めば良いのです。あとは神さまが守りと導きを与えてくださいます。

2.証しする聖霊

証しと聞いて何をどう話せばよいかと不安を覚える人は多いかもしれません。でもイエスさまは「思いわずらう必要はない」と教えておられます。信じた私たちには聖霊の助けがあって、お言葉から霊の力が与えられるのです。それで私たちの言葉には聖霊の力が感じられ、聞く相手がその力を受けとめて信じることができるように導かれるのです。すぐに信じることができなくても何かが違うと感じるのです。これが聖霊による証しです。

3.同伴くださる神

私たちが信じて歩み、証しをすることで、世からの反発が必ず起きてきます。だからこそ神さまは証し人の私たちを一人で放置されることはなさいません。神さまは私たちと二人三脚で歩まれます。それは神さまが共に悩み、助け、あわれんでくださり、私たちにその恵みを味あわせてくださる素晴らしい歩みなのです。

2025323日 週報より

2025年3月16日日曜日

あわてないで

聖書箇所 マルコによる福音書131-8

また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。マルコによる福音書137

1.神殿に目をとめた弟子

弟子のひとりは、すばらしい神殿の外観に目が奪われています。神さまのご臨在を示す神殿も、外観だけに目を奪われるなら神さまへの信仰は妨げられます。イエスさまは、神殿の崩壊を預言されています。神殿にすがる弟子たちの思いをイエスさまを神殿とする信仰に向けさせるためでした。私たちも外観や雰囲気によらずに見えない神さまに心を向けることが大切です。

2.前兆を知りたがる弟子

四人の弟子は、神殿の崩壊についてイエスさまに尋ねます。神殿崩壊で信仰の土台も崩れるとの恐れがあったのです。「それは困ります。前もって知っていないと不安です」と自分たちの思いだけで聞いています。これではイエスさまが伝えようとした真意を受けとめることができません。いつも聖霊を意識して、お言葉からそこにある神さまのお心を求めることを教えられています。

3.前兆を語られたイエスさま

イエスさまは、終わりの時の前触れを明らかにされています。多くの偽キリストの出現や戦争、自然災害が起こると言われます。まさに現在の世界を見ているようで、私たちも不安になります。しかし、イエスさまは「あわてるな」と言われています。終わりの日は、確実にやってきます。イエスさまを信じ救われた者は何をも恐れることはありません。神の御手の守りがどこまでもあり、終りの日が私たちの恵みの時となるからです。それが神さまの約束です。

2025316日 週報より

2025年3月9日日曜日

困難の中で神を喜ぶ

聖書箇所 詩篇131-6

しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。詩篇135

1.神への訴え

1-2節では、耐え難い状況の作者が、神さまに「いつまで」と訴えています。作者が苦しんでいるのは、神さまから見放されたとの思い、からだも心も疲れ果てていること、神さまが自分の敵を味方しているように感じていることでした。神さまは信仰者を見放すお方ではありません。作者はもがき苦しむ中で、信仰を働かすことができずにこのように感じていたのでしょう。しかしその状況を隠さず訴えて、神さまに全力でぶつかっています。

2.神への願い

3-4節は神さまへの願いです。どん底の状況のままで神さまに向き合った結果、信仰が働き始めました。神さまは必ず祈りに応えてくださるとの思いが強められ、祈りに導かれています。どんな苦しみによっても信仰が完全に消されることはありません。そしてどのような状況でもそのままの自分で神さまに向かえば、神さまへの信頼が回復し、自然に祈りへと導かれるのです。

3.神への感謝

5-6節では、これまでの訴えと願いが、感謝と告白に変えられています。作者は祈る中で、神さまのいつくしみに満たされました。祈りの結果を見なくても、神さまは最善に導いてくださるとの思いが強められたのです。そして心が悲しみから喜びに変えられていきました。神さまは信じた者を決して忘れることのないお方です。決して見捨てず、最後まで責任を持って守り導いてくださいます。

202539日 週報より

2025年3月2日日曜日

余りものでなく

聖書箇所 マルコによる福音書1241-44

よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。マルコによる福音書1243

1.貧しいやもめの献金

イエスさまは人々が献金する様子を見ておられました。その時、貧しいやもめがレプタ2枚(今の日本で160円相当)を献金の箱に入れました、彼女は人目を気にせずに、神さまだけを見て一心に献げていました。それは自分の目いっぱいをひたすら神さまへの信仰によって献げている姿でした。

2.信仰を献げたやもめ

彼女はこの時、2 レプタを献げました。それは彼女の生活費のすべてでした。しかし彼女にとっては神さまに献げるという行為そのものが何より大切だったのです。必要を満たしてくださる神さまを信頼しきっていたから、持てる2レプタすべてを献げることができたのです。彼女は神さまへの信頼を献げました。これは決して「生活費全額を献げよ」との勧めではありません。日々必要をすべて満たしてくださる神さまへの信頼を私たちに問われているのです。

3.献金に見る礼拝の姿勢

イエスさまは貧しいやもめの献金の姿を通して、礼拝について教えておられます。礼拝とはこの女性のように神さまの前に自分のすべてを差し出して献げることです。自分の生活の一部や余った部分をもって献げるのではありません。自分の思い、自分の体、自分の時間を献げて神さまの前に立つことを神さまが喜ばれます。神さまがその信仰に慰めや励ましを与え、祝福と助けをくださるのです。

202532日 週報より 

2025年2月9日日曜日

大切な霊の思い

聖書箇所 マルコによる福音書1228-34

また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。マルコによる福音書1233

1.律法学者の質問

一人の律法学者がイエスさまの巧みな回答に感心して、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と質問をします。彼は律法の専門家であることを誇らず、自分の立場にもこだわらない低い心の人でした。それは神さまの前に正しくありたいという霊の思いを大切にしていたからでしょう。彼は肉の思いの上にこの霊の思いを置いて、人を見ずに神さまを見て歩んでいました。

2.律法学者の応答

この質問にイエスさまは「神さまのお心は、あなたがたが神さまを愛し、隣人を愛することだ」と答えられます。この律法学者もイエスさまと同じ思いがあったので、「すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」とすぐに応答できました。イエスさまのお言葉が、彼の中にある霊の思いを引き出したのです。私たちも彼のように霊の思いで反応する信仰者でありたいと思わされます。

3.ほめられた律法学者

イエスさまはこの律法学者をほめました。それは「あなたの答えは、神さまが語らせてくださったものだ」と悟らせるためであったと考えられます。信じた私たちは、「神さまに従います、従えるように導いてください」と願い求めて、自分自身を明け渡していくことが大切です。そうすれば、霊の思いによって神さまが語らせてくださり、そこにある神さまのお心を理解することができるのです。

20252月に9日 週報より

2025年2月2日日曜日

復活の信仰に生きる

聖書箇所 マルコによる福音書1218-27

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている。マルコによる福音書1227

1.サドカイ人の思い違い

復活を信じないサドカイ人たちが登場します。そして次々に亡くなった兄弟7人全員が、律法の定めに従い1人の女性を妻にする話をします。「復活があるとすれば、7人が同時に1人の女性を妻に持つことになり、それは律法違反となるので復活はない」との主張です。イエスさまは、「復活は世の状況を引き継がない」と彼らの思い違いを指摘されます。理屈での理解は、信仰の歩みを妨げるのです。

2.永遠に生きる者の神

さらにイエスさまは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコプの神」と現在形で語られているお言葉を引用されます。彼らは復活により永遠に生きる信仰者であって、神さまは彼らの神であり続けると言います。イエスさまを信じるだけで永遠のいのちが与えられ、イエスさまが神であり続けてくださるのです。

3.復活のイエスさまからの働きかけ

十字架で死んで葬られたイエスさまの復活は、誰も否定できない歴史の事実です。イエスさまを信じることは、復活を信じることです。イエスさまは天に戻られた今も私たちの生活のあらゆる面で共にいてくださり、支えつづけてくださっています。私たちはこの復活の信仰の中に生かされています。そしてやがて死も涙も痛みも叫びもない天国に帰るのです。これがこの世のどんな状況にあっても消えることのない私たち信仰者の希望なのです。

202522日 週報より

2025年1月26日日曜日

神のものを神に返す

聖書箇所 マルコによる福音書1213-17

するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。              マルコによる福音書1217

1.巧妙な策略

パリサイ人とヘロデ党の者たちが、「ローマ皇帝に納税してよいか」とイエスさまに尋ねます。もし「よい」と言えば、ローマの支配を認めユダヤの人々の反発を買います。逆に「いいえ」と答えれば、ローマ皇帝に敵対する者として訴えることができます。これはイエスさまを落としめるためのとても練られた策略だったのです。

2.デナリ銀貨

イエスさまの答えは、彼らが付け入る隙のないものでした。当時のデナリ銀貨にはローマ皇帝の肖像がありました。ユダヤの人々はその銀貨での納税は、皇帝を神とする不信仰だと考えていました。しかしイエスさまは「カイザルのものはカイザルに」と言われて、その考えを否定されました。イエスさまは彼らの策にはまらないためだけでなく、正しい信仰の在り方を教えておられたのです。

3.神のものは神に

イエスさまは彼らに対して、「あなたがたが神のものを神に返していないことが大きな問題である」と厳しい指摘をされているのです。では神にお返しするにはどうすればよいのでしょうか。それには、まずすべてが神さまによって与えられていると覚えて、神さまの前に立つことです。その上で聖霊の助けによって、何が神さまの御旨であるかを知り、神さまに喜ばれる選択をするようにします。これが神さまに栄光を帰して、神さまにお返ししていく歩みです。

2025126日 週報より

2025年1月19日日曜日

神のものを盗まない

聖書箇所 マルコによる福音書121-12

あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。                                                                マルコによる福音書1210

1.非難された指導者たち

ここでイエスさまはたとえ話をされます。ある土地に所有者がぶどう園を作ります。ぶどうを守る垣根をはり、設備も整えて、農夫を雇ってそこからいくらかの利益を納めてもらおうとします。しかし雇われた農夫たちは、全部自分たちのものにしようと所有者の息子を殺してしまいます。イエスさまは、この農夫こそが今の指導者たちの姿だとたとえ話を用いて非難されたのでした。

2.大切な石を捨てた指導者たち

指導者たちには、ユダヤの人々を神さまに忠実に歩めるように導いて育てる責任がありました。しかし彼らはたとえ話の中の農夫のように、主人である神さまに背を向けて歩んでいたのです。イエスさまはそんな彼らに、「あなたがたは、『隅のかしら石』であるわたしを殺すようになる」と彼らの中に恐ろしい心があることも明らかにされていました。

3.神から盗んでいた指導者たち

指導者たちは神さまから預けられた人々を自分たちのいいようにしていました。こうして神さまのものを盗んでいたのです。私たちが与えられている信仰の歩みは、神さま所有のぶどう園そのものです。よい実を結ぶように任せられているのです。その実はすべて神さまのものなのですが、私たちが自分たちのものとして受ける分も与えてくださっています。これが恵みです。この恵みに心から感謝していれば、神さまのものを盗むことがない歩みができるのです。

2025119日 週報より

2025年1月12日日曜日

神にある権威

聖書箇所 マルコによる福音書1127-33

それで彼らは「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスは言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」

                       マルコによる福音書1133

1.保身に走る指導者たち

イエスさまの言動の一つ一つは、祭司長たち指導者の権威を無視し、体制や組織を否定するものでした。そこで、彼らは、自分たちの立場を守るために、イエスさまを責めようとしました。人には自己保身に走る弱さがあります。すべて正しい神さまにお任せして、その弱さに流されない高潔さを持たせていただくことが大切です。

2.人を誇る指導者たち

指導者たちはイエスさまに対して「あなたは最高指導部から承認のないにせ者教師にすぎない」と問い詰めようとしました。組織は、人々を効率よく導くよい手立てとなるものです。しかし指導者たちの組織は神さまに仕えるという目的から外れていました。人の思いを満足させ、人を誇るものとなっていました。私たちも人だけに仕える教会になることのないように注意しておく必要があります。

3.追い込まれた指導者たち

指導者たちは追い込まれていました。ヨハネのバプテスマが神の権威によるとすれば、「なぜヨハネに従わなかったのか」と問われるでしょう。一方、人の権威だと言えば多くの民を敵にまわします。民の多くが、ヨハネにある神の権威を認めていたからです。彼らは、答えをごまかしました。私たちにも自分に都合の良い考えを信仰だとしてしまう弱さがあります。神の権威の前には自分の思いなど何の値もないと認めること、そして神さまに従わせてくださいと常に心から願い求めて、神の権威を恐れる歩みが大事なのです。

2025112日 週報より

2025年1月5日日曜日

祈りの姿勢

聖書箇所 マルコによる福音書1120-26

イエスは答えて言われた、「神を信じなさい」。      マルコによる福音書1122

1.弟子たちへの教え

実は弟子たちの中にも目に見える神殿そのものを信仰するような部分がありました。イエスさまはそんな弟子たちの危うい信仰を見えない神さまに向かう信仰に入れ替えようとして教えをされています。私たちもイエスさまにどこまでも信頼していくなら、見えない神さまに信頼する信仰の土台を神さまが備えてくださいます。

2.信仰で祈る

ここでイエスさまは、神さまの全能の御力への信頼をもって祈る大切さを示されています。それは「人にはできない事も、神にはできる(ルカ18:27)」と、私たちには思いも及ばないところにも働く神さまの無限の御力を信頼することです。つまり祈りは言葉によってではなく、信仰で祈るものです。それも絶対的信頼で祈るのが祈りだと教えられています。

3.祈った後の信仰

祈った時点ですでに神さまがかなえてくださっていると信じたならば、疑ったり、思いわずらったりすることはなくなります。神さまは時間を超越したお方であるので、神さまの目から見れば、将来のこともすべてが今の出来事のようにかなえられています。神さまが御心の内に、祈ったすべてを実現されると確信することができれば、祈った後も疑うことなくすべて神さまにお任せできるでしょう。この祈りの姿勢が、神さまの望まれる信仰者の姿勢であることを教えられています。

202415日 週報より 

2025年1月1日水曜日

お言葉をそのまま受け取る

聖書箇所 ローマ人への手紙108

言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある。        ローマ人への手紙108

1.パウロの願い

パウロはユダヤ人でしたが、異邦人の救いのために遣わされました。そして、同じユダヤ人の救いをも心から願っていました。ユダヤ人たちは律法を守るための決まりを自分たちでたくさんつくり、それをひたすら守っていたのです。しかしパウロは、律法を守るという行いによる義ではなくて、救い主イエスさまを信じて、信仰による義へと彼らを導こうとしていました。

2.パウロの導き

パウロは「イエス・キリストが十字架の死によって神の義をいただける道を備えてくださいました。そのイエス・キリストを信じるだけです。そうすれば神の前に義とされます。人の頑張りや律法を守ることで神の義を得ようとする必要はありません。神さまに心を向けていれば、神さまの前に義として歩むことができるように神さまがしてくださいます」と言っています。

3.私たちへの導き

ユダヤ人たちの間違いの始まりは、神さまのお言葉を頭で理解し納得しようとしたことでした。これに対してパウロは、「神さまからのお言葉は私たちのそばにあり、私たちの口にあり、私たちの心にあって、それを行うことができるように神さまが力をくださるのです」と言います。近くにあるお言葉を遠くしているのは、世的な考えや自分の頭で納得したいと思う思いなのです。私たちも聖霊のお導きをいただきながら、お言葉を素直に受け取りましょう。お言葉を身近なものとして新しい一年を歩んで参りましょう。

02511日 元日礼拝プログラムより

2024年12月29日日曜日

心を見られる神

聖書箇所 マルコによる福音書1112-21

そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。

 マルコによる福音書1117

1.実のないいちじく

イエスさまがここで言わんとされているのは、神殿での人々の行為がこのいちじくの木のようだということです。人々の礼拝の様子は一見、信仰深そうに見えていました。しかし、人々の心は神さまに向いておらず、神さまの望まれる実がひとつもない姿であるというのです。そし彼らは、枯れたイチジクの木のように神さまに見捨てられてしまうというものでした。

2.心のない神殿礼拝

神殿は人々が見えない神さまの存在を感じ、信じるためのしるしでした。そして神殿は神さまに祈るための祈りの家でした。この信仰に立つのが神殿での礼拝でした。しかし、イエスさまが神殿を見回られた時、神さまに心を向けて祈る信仰は見られず、形ばかりの礼拝が献げられていたのです。今は礼拝を教会でお献げできる恵みの時代です。しかし、礼拝が形だけのものにならないようにとあらためて教えられます。

3.自分を聖霊の宮として

神さまは私たち一人一人の心を見ておられます。心のない形ばかりの礼拝では、ただ神さまを低く見ていることを示すだけです。そんな神殿の状況に終わりを告げようとされたのが、イエスさまの宮での行為でした。聖書は信じる私たち自身が、聖霊の宮であって、目に見えない神殿であると言います。私たちは、聖霊の宮としての自分を神さまのものとして歩むようにと望まれているのです。

20241229日 週報より

2024年12月15日日曜日

クリスマスメッセージ 御手の守り

聖書箇所 ルカによる福音書1章5-25

するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。         ルカによる福音書1章18節

1.ザカリヤの背景

ローマの支配に苦しむ人々は、神さまが約束された救い主の訪れを待ち望んでいました。祭司であるザカリヤ夫妻は、律法の決まりを守り行う「神のみまえに正しい人」たちでした。しかし二人には子供はおらず、すでに年老いていました。祭司職は世襲制で、男の子供以外には引き継げません。ザカリヤの願いと祈りは、救い主の訪れによるイスラエルの平和と我が子の誕生であったでしょう。

2.ザカリヤの恐れと不信仰

彼が聖所で務めをしていると突然、御使い(天使)があらわれます。御使いは、恐れるザカリヤに男の子の誕生を告げます。しかし彼は信じられず、口をきけなくされます。彼の恐れや不信仰はどこから来たのでしょうか。それは神さまに仕えながらも心が神さまに向かず、子供の誕生を祈りながらも「もう無理」と思い込んでいたからでしょう。世的な肉の思いが彼の信仰を覆っていたのです。

3.ザカリヤの賛美

口がきけない苦しみの日々でも、彼は妻のお腹が少しずつ大きくなるのを見ます。彼はそこに神さまのあわれみと恵みを見続けました。やがて彼の口が開かれた時、恐れや苦しみによる恨み言ではなく、神を賛美する言葉が出ます。私たちもそれぞれにその人なりの恐れや苦しみがあります。しかし私たちは、それが全て益とされる神さまのご計画であり、御手の守りの中にあると信じることが大切です。そうすれば恐れ、辛さに悩む心が平安に変えられます。

2024年12月15日 週報より

 

2024年12月8日日曜日

エルサレム入場

聖書箇所 マルコによる福音書111-11

そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。    マルコによる福音書117

1.神さまの弟子として

村から子ろばを引いてくるように言われた弟子たちは、すべてイエスさまの言われたとおりになったことを経験しました。イエスさまが、先を見通す神さまの力を見せられたのです。ここまで弟子たちは人としてのイエスさまに多くを頼ってきました。しかし、エルサレムに向かう今、神としてのイエスさまに従う弟子となるのだと教えられたのです。

2.王としてのエルサレム入場

人々はイエスさまのために上着や木の小枝で王の道を用意しました。彼らの期待は、力によってローマを追い出し、ダビデの王国を再建する王でした。しかしこの時のイエスさまは、十字架にかかり苦難を通る王として来られていました。まもなく人々は、このお方を王であり救い主だと認めるのか、それとも捨て去るのかの選択を迫られることになります。

3.平和の君として

戦争に用いられる馬とは違い、ろばは平和の象徴です。イエスさまは、ご自分のいのちを十字架に献げることで、私たちに神さまとの平和の道を用意してくださいました。平和の君であるイエスさまを受け入れる者にこの世では得られない平安が与えられます。このイエスさまを受け入れるのか、拒むのかを全ての人が問われているのです。信じた私たちは、「全て明け渡します。あなたのお心のままになさってください」とイエスさまに自分をお委ねいたしましょう。

2024128日 週報より

2024年12月1日日曜日

盲人の信仰に倣う

聖書箇所 マルコによる福音書10章46-52節

彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。       マルコによる福音書10章47 節

1.盲人の告白

エリコの町で盲人のものごいが、イエスさまに叫び続けます。「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」との叫びは、彼の信仰告白でした。彼は、「救い主であるイエスさま、あなたは盲人の目をあけることもおできになります。あなたはすべてをご存知です。あなたのお心ならばあわれんでください」と叫び続けていたのです。イエスさまはこの告白に急ぐ足をとめられたのです。

2.盲人の確信

彼は、イエスさまが呼んでおられると聞いたとたんに、踊りあがって喜びました。彼はこの時もうすでに目が癒されることを確信していました。イエスさまが通られる唯一の機会を、彼は恵みの時としたのです。ものごいの境遇と戦いながら、それでも彼は救い主を心から待ち望み、神さまのあわれみが注がれることを信じ続けていました。イエスさまは、弟子としてのあるべき信仰の姿をこの盲人に見ておられました。

3.盲人の信仰

この盲人はただ神さまのあわれみにすがりました。「神さま、あなたは私のことをすべてご存知で、こんな私にも恵みを与えるあわれみ深いお方です。その恵みを私に受け取らせてください」。これがこの盲人の思いでした。イエスさまは「あなたのその信仰によってあなたは助けをいただいたのです」と言われたのでした。これまで霊の目で信じてきた彼は、この時から見える目で、イエスさまを仰ぎ従いました。私たちも「お心ならばあわれんでください」という盲人の信仰に倣って歩む者とされましょう。

2024年12月1日 週報より