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2024年4月28日日曜日

神さまをどこまでも信じていますか

聖書箇所 マルコによる福音書521-2435-43

内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。                 マルコによる福音書539

1.決断をした会堂司ヤイロ           

会堂司とは、礼拝(ユダヤ教)を正しく執り行なう監督者です。この時ユダヤ教の指導者たちはイエスさまと敵対していました。ヤイロは立場上、イエスさまにお願いするまでには時間を要したでしょう。途中で娘の死を知ったヤイロは、イエスさまがもっと急いでくださっていたらと思ったでしょう。でも自分の決断までの時間を差しおいてそう思うのは、人の身勝手さであり愚かさなのです。示されたらすぐにイエスさまに従う大切さを教えられています。

2.信仰の制限を外されたヤイロ

確かにヤイロは、イエスさまの癒しの力を信じていました。しかし死んでしまったらさすがにイエスさまでももうダメだと思ったのです。イエスさまはそんな彼に「恐れなくても良い」と声をかけられました。そして娘を生き返らせたのです。ヤイロはこれを見て、自分で設けた信仰の制限が外され、神さまは何でもおできなるお方であることを確信することができたのでした。

3.できないことのない神さま

私たちはどうでしょうか。神さまには不可能はないと信じ切っているでしょうか。私たちは自分の思い通りにいかずに落ち込んでは、目に見える状況をただ恐れてしまいやすい弱い者です。そして知らない間に「さすがに神さまでも…」と自分で制限を設けてしまうのです。神さまは私たちを本気で愛し、私たちのもっとも良い時にもっともよくなるようにお心にかなったことは何でもしてくださるお方です。 信仰の制限を外して、この神さまに益々信頼をおいて歩みましょう。

2024428日 週報より

2024年4月21日日曜日

悪霊を追い出された人の働き

聖書箇所 マルコによる福音書51-20

あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。        マルコによる福音書519

1.けがれた霊につかれた人

ゲラサびとの地についたイエスさまの前にけがれた霊につかれた人がやって来ました。この人は、正常な意識を持ちながらも悪霊に動かされるままになり、それを嘆き悲しむしかない状況でした。罪にとらわれている私たちも同じです。罪の奴隷となり、したい善を行えず、したくない悪を行って神さまに喜ばれないことを重ねているのです。この人は、罪にとらわれた私たちの姿そのものを示しています。

2.ゲラサの人々

この人を狂わせた多くの悪霊を、イエスさまはお言葉一つで従わせられました。しかしそのことで豚の大群が死んだのを見たゲラサの人々は、イエスさまによって豚が失われる経済的損失を恐れました。この世は常に正義よりも安定を求めます。イエスさまに従い正しくあろうとすれば、世からの反発に遭うのです。それでも私たちはイエスさまの喜ばれる選択をする信仰者でありたいと教えられます。

3.ゲラサの人々への証し

悪霊から解放されたこの人にイエスさまは、ゲラサの人々への宣教を託しました。マルコによる福音書の653節以降には、この男性によって地域の宣教が大きく前進した様子が描かれています。イエスさまに立ち去って欲しいと願ったゲラサの人々にイエスさまのことを伝える働きは、悪霊を追い出していただいたこの人にしかできないことでした。イエスさまは私たちが遣わされている場所で、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」を知らせ伝えていくことを願われています。

2024421日 週報より

2024年4月14日日曜日

危機的状況への対処

聖書箇所 マルコによる福音書435-41

そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。              マルコによる福音書438

1.おびえた弟子たち

激しい突風で舟が沈みそうになり、弟子たちは皆おびえました。それは、イエスさまが眠っておられたからです。「私たちが死んでもイエスさまは平気なのか」と弟子たちは思いました。またイエスさまでもこの嵐はどうにもできないと考えました。さらに舟に乗るように言われたイエスさまを責める気持ちがありました。そしてイエスさまを信じる信仰を働かせることができなくなり、おびえたのです。

2.イエスさまへの不満

問題は状況を恐れることではなく、恐れる状況にあって神さまに不満を持ち、文句を言おうとする心でした。不満がつのれば、イエスさまが守り最後は良しとしてくださると信じる心が働かなくなります。置かれた状況がいかに厳しくても「御手の中から引き離されることは絶対にない、イエスさまが最後まで責任をもって導いてくださる」と信じて信仰を働かせることができるかが問われています。

3.イエスさまとともに

危機的状況で信仰を働かせるには、イエスさまに完全にお委ねすることです。自分の無力さを覚える中で、「無に等しい私をただイエスさまが支えてくださっている」と感じ入るのです。そして「イエスさまが私のいのちを握ってくださっている」と確信し、イエスさまに信頼して一歩踏み出します。そうすれば共にいてくださるイエスさまが、すべてを一緒に背負って、いつの間にか乗り越えさせてくださいます。「イエスさま、信じます。無に等しい私ですからともに歩ませてください。」これが委ねて歩むことであり、信仰の働かせ方なのです。

2024414日 週報より