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2025年12月7日日曜日

神のご計画に導かれて

聖書箇所 ルカによる福音書15-25

「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。ルカによる福音書125

1.祭司ザカリヤ

イスラエルの人々は、長い支配と税に苦しんでいました。人々は聖書に約束されている救い主と預言者エリヤの再来を待ち望んでいました。祭司ザカリヤと妻エリサベツは敬虔な祭司の家系でした。しかし高齢になっても子どもが与えられず、それが重荷となっていました。そしてザカリヤには、戸惑いやあきらめが生じていました。

2.ザカリヤの不信仰

ザカリヤは御使いから、エリヤの再来となる男の子の誕生を知らされます。彼は神さまの前に正しく、十分な聖書の知識もありました。しかし信じられませんでした。彼の口がきけなくなったのは罰ではなく、神のご計画を悟るための神さまのあわれみでした。私たちに起こる好ましくない出来事も、神さまの祝福につながる神のご計画です。神さまを信頼し、受け入れるように招かれているのです。

3.ザカリヤの確信

ザカリヤは妻エリサベツのお腹が大きくなるのを見ながら、神のご計画と導きを確信していきました。子どもが与えられて「恥が取り除かれた」と語るエリサベツの姿も、神の深いあわれみを示しています。人生の苦しみにも一人ひとりへの神のご計画があります。祈りによって神さまに近づく時、恐れは平安に変えられます。そして神の御子イエスさまが私たちの重荷を負ってくださいます。そんなイエスさまのご降誕を祝うクリスマスをともに喜びましょう。

2025127日 週報より

2024年6月23日日曜日

あわれんでくださる神さま

聖書箇所 マルコによる福音書635-44

弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。                      マルコによる福音書637

1.訓練を生かせなかった弟子たち

弟子たちが伝道の働きを終えたすぐ後、イエスさまは人々に教えをされていました。夕暮れ時となり、人々を解散させて食事させようと提案する弟子たちにイエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われます。弟子たちは訓練としての働きの中で、神さまの力による人々への癒しを経験しました。イエスさまは弟子たちが自分たちで食物を与えられるように再び神さまの力に頼ることを期待されていました。しかし弟子たちはその経験を生かせませんでした。

2.あわれみにより満たされた人々

イエスさまは、飼う者のない羊のような人々を深くあわれまれました。今ようやく霊が養われ始めた人々のために、霊の満たしに加えて肉体の満たしも神さまが与えてくださることを目の前で実現されようとしていました。私たちもお言葉にかたく信頼して神さまに向かっているならば、神さまはあわれみによってこの世の必要をかならず満たしてくださいます。それがすぐに示されなくても神さまのあわれみを確信して歩むのが私たちの信仰だと教えられています。

3.祈りについて示されている私たち

イエスさまは弟子たちが自分たちで食物を与えられるように祈ることを期待されていました。そうであれば私たちも不可能を可能にされる神さまに何でも祈り求めていくことが正しいのでしょうか。それともそれは自分本位な不信仰な要求なのでしょうか。残念ながら私たちにはこの境界線が分かりません。そこで私たちは不可能に思えることであっても神さまが必要とお考えになるなら、こたえてくださると信じて祈ることが大切です。そしてあとは神さまの御心にお任せしてしまうのです。これが私たちの信仰の態度、願いの祈りの姿勢です。

2024623日週報より