ラベル 十字架 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 十字架 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年9月29日日曜日

誰が一番偉いか

聖書箇所 マルコによる福音書930-37

しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。       マルコによる福音書932

1.二度目の受難予告

イエスさまはここでもう一度、ご自身の受難について弟子たちに教えられています。しかし弟子たちはイエスさまの言葉を真剣に受けとめず、尋ねもしませんでした。それが彼らの期待とは全く違う、受け入れ難い内容だったからです。しかしこのようなことは肉の思いから来るもので、霊が育てられる機会を自ら手放すことになります。霊的な導きに気づいたならば、無視や拒否ではなく、素直に従うことが大切です。それが神さまに喜ばれ、祝福をいただく道だからです。

2.一番偉い弟子は誰か

受難予告の話題を避けて、弟子たちは「誰がイエスさまの次の位に就くのか」という肉の欲を満足させる話で盛り上がります。イエスさまは、そんな弟子たちを正しい霊的判断ができるように導かれています。「神さまに一番高いと見られたかったら、肉の目で一番低い人になって、仕えなさい」と教えます。さらに子供を受け入れることが、わたし(イエス)と父なる神を受け入れることだと言われました。

3.霊が育てられる歩み

イエスさまは、当時社会的に無価値と見られていた子供を真ん中にして教えられました。これは私たちへの教えでもあります。たとえば、イエスさまの受難告知のように肉の思いでは受け入れ難いことが示されたとします。それでも主にあって子供たちを受け入れるように、肉の思いから離れて、示された霊的事実を受け入れるようにと言われているのです。それが、私たちの霊を育てるために神さまが用意されたものと信頼して、受けとめ、また受け入れていくのです。そうすれば、肉の思いから解放されて、霊が育てられる歩みとなります。

2024929日 週報より

2024年9月22日日曜日

不信仰をさとる

聖書箇所 マルコによる福音書914-29

イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。                                                                             マルコによる福音書923

1.嘆かれたイエスさま

父親は息子から悪霊を追い出してもらいたい一心で、イエスさまを待てずに弟子たちに願い出ていました。父親が息子を思ってのことで、一見、神さまが悲しまれるような不信仰には見えません。しかしこの時の父親は、自分たちの状況がよくなることだけで心がいっぱいでした。父親の心が肉の思いでおおわれて、イエスさまから離れていることをイエスさまは見ておられたのです。

2.悔い改めた父

「できませんでした(9:18)」からは、これまでのこの父親の強い期待と信頼が、失望と落胆に代わった様子が見てとれます。父親は弟子たちへの失望をそのままイエスさまに対する失望として、自らを不信仰に追いやりました。しかし、イエスさまのお言葉(9:23)によって、自分の愚かな不信仰の姿に気づき、悔い改めて「不信仰なわたしを、お助けください(9:24)」と叫んだのでした。

3.不信仰に気付かない弟子たち

弟子たちは不服そうに「どうして霊を追い出せなかったのですか(9:28)」と聞いています。この不満が不信仰なのです。神さまが、私たちを通してみわざをなしてくださると信じることは、不信仰ではありません。しかし自分たちが思い描いた通りになるように期待し、神さまに要求することは違います。弟子たちは神さまがいつでも自分たちを通して悪霊を追い出すみわざをしてくださると思い込んでいました。それが不信仰だということにこの時の弟子たちは、気づいていなかったのです。そこでイエスさまは、弟子たちにまず祈って気づくように(9:29)と言われていたのです。

2024922日 週報より

2024年9月15日日曜日

神さまの恵みを味わう

聖書箇所 マルコによる福音書99-13

しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。                                                                    マルコによる福音書912

1.誰にも話さないように

イエスさまは「いま見たことをだれにも話してはならない」と言われました。イエスさまが神さまであるという事実は、今は三人の弟子たち以外には、つまずきになるということでしょう。人は霊的事実を霊の目で見ることができない時、理屈や知恵で理解しようとします。しかしそれは、勝手に事実を曲げて納得することです。私たちはそうすることで、イエスさまに従うことへの妨げとしてしまうのです。

2.霊的なひとり立ち

イエスさまが死なれることは、弟子たちが決して考えたくない、考えられないことでした。もっともっとイエスさまに頼って教えをいただきたかったのです。しかし神さまのご計画は彼らが聖霊を受けて、早く霊的なひとり立ちをすることでした。イエスさまは、「自分の思いによる計画ではなく、わたしが示すあなたの計画を自分のものとして受けとめて、それに従って歩みなさい」と言われているのです。

3.隠された神の恵み

イエスさまは、神であるキリストがどうして犯罪者のように捨てられ、殺されなければならないのかをよく考えるようにと弟子たちに示されました。そしてここにどれ程の大きな福音の恵みが隠されているのか、その恵みと祝福のすごさ、すばらしさに気づき始める者になりなさいと導いておられます。私たちは神さまから示される霊的事実の一つ一つを霊の目で見て受け取り、それらを積み重ねていきます。そうすれば、霊の奥深い所に隠されているすばらしい恵みを知って、味わうことができるようにされるのです。

2024915日 週報より

2024年9月8日日曜日

エリヤやモーセよりも

聖書箇所 マルコによる福音書92-8

そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。     マルコによる福音書97

1.光り輝く神イエス

イエスさまは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、高い山に登られました。ここでイエスさまは、これまで弟子たちが見ることのできなかった神としてのまばゆく光り輝く姿をあらわされました。弟子たちの信仰は、人としてのイエスさまに頼るばかりで、神であられることには焦点が合っていませんでした。そこでイエスさまは、三人の弟子たちにはっきりと神のお姿を示されたのです。

2.恵みの時代の幕開け

この時ペテロは、預言者エリヤと指導者モーセの姿を見ます。この二人は旧約時代の神と民との契約を代表していました。そして新しい契約者イエス・キリストへの切り替わりを意味していたのだと考えられます。これは神さまの恵み豊かな福音時代の幕開けを示すものでした。イエスさまは、この経験を三人の弟子だけに限定されました。彼らは今すぐには理解できなくても、この先霊の目が開かれて理解できるようになることをイエスさまはご存じでした。

3.イエスさまを仰ぎ見る

ペテロは肉の思いで、エリヤとモーセに夢中になっていました。そこに「これはわたしの愛する子である。これに聞け」との神さまの声が聞こえてきます。これはイエスさまに心を向けていくようにとの示しでした。信仰の導き手であり、完成者であるイエスさまを仰ぎ見て進むのが私たち信仰者の歩みです。このお方こそ私を罪から救ってくださった神さまだと信じきるのです。こうして神であるイエスさまに焦点を合わせて進むならば、他のすべてのことにおいても、神にあって正しく見、判断して行動できるようになります。

202498日 週報より 

2024年9月1日日曜日

主に従う喜び

聖書箇所 マルコによる福音書834-91

彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。                               マルコによる福音書834

1.自分を捨てる

イエスさまが「自分を捨て」と言われた「自分」とは、先にペテロが失敗した原因となったものでした。それは自制できない人間的な思いや感情です。それらは肉の思いから来ます。イエスさまは「まず自分の中にある肉の思いを捨てることが大切なのです。」と言っておられます。それには前回私たちが見た、いつも上にあるものを思って神さまのご支配くださる領域を広げることが助けになります。

2.自分の十字架

この十字架は、信じた一人一人に神さまが与えておられる役割のことです。それを忠実に果たしていくことが、「自分の十字架を負う」の意味です。神さまが信じた私たちに求めておられるのは、人を救う神さまのご計画を進めていくことです。それはイエスさまが再び来られる時まで、イエスさまの十字架の死と復活を告げ知らせていくことです。十字架や役割と言うと構えてしまうかもしれませんが、それぞれに置かれた場所での証しと捉えれば良いのではないでしょうか。

3.主に従う理由

35節以降は、自分の十字架を負うことがイエスさまに従う条件となる理由です。世の人々が肉の思いで努力して必死で求め、最高の幸せを得ようとする人生では本当の人の幸せはやって来ません。それは神さまを無視し、神さまに従順に生きようとしないからです。そして人としての尊厳が失われ、人を顧みずに自分の幸福や利益だけを追求します。そうではなくて、日々イエスさまに従うことで、本来の人らしく歩ませていただける喜びを日々味わう者とされましょう。


202491日 週報より

2024年8月25日日曜日

上にあるもの

聖書箇所 マルコによる福音書822-33

「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 

                                                                                      マルコによる福音書833

1.二回のいやし

盲人ははじめの癒しで、ぼんやり見えるようになりました。これは、真理をぼんやりながらも理解できている弟子たちの様子をあらわしていました。次の癒しで盲人は、はっきり見えるようになります。弟子たちも同じように、この後イエスさまの上からの力によって真理をはっきりと悟るようにされるのです。神さまは私たちにもそれぞれの信仰の状況に応じて導いてくださいます。上からの力で、更によく見えるようにしてくださるのです。

2.ペテロの信仰告白

イエスさまは、質問することによって弟子たちの信仰をさらに引き上げようとされます。ご自身の評判を尋ねたあとに「それではあなたがたはわたしを誰だといいますか」と鋭い質問をされました。この時ペテロは「神が約束された救い主で、神であるお方(つまりキリスト)です」と答えます。このペテロの信仰告白は、彼の知恵や判断ではなくて、神さまが語らせてくださったものでした(マタイ16:17)。

3.上にあるものを思う

イエスさまはこれから受けるべきことを弟子たちに話されました。イエスさまをいさめたペテロは、イエスさまから激しいおしかりの言葉を受けます。この時のペテロと同じように、私たちの口からも信仰による言葉もまた、信仰によらない言葉も出ます。このせめぎ合いから抜け出すには、聖霊に助けによって、いつも上にあるものを思うことです。今日の3つの話は一見バラバラに見えます。ですが私たちが上にあるものを思う時、神さまのご支配くださる領域が広がり、サタンが押し出されていくことを教えられているのです。

2024825日 週報より

2024年8月18日日曜日

パン種の影響

聖書箇所 マタイによる福音書811-21

そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。                 マルコによる福音書815

1.しるしを求めたパリサイ人

パリサイ人たちはイエスさまに天からのしるしを求めます。それは預言者エリヤが見せた、天からの火で供え物を焼きつくすようなしるしでした。しかしイエスさまは、彼らの貧しい信仰を嘆き、彼らとのこれ以上の議論を避けられました。パリサイ人たちは、目に見えない神さまを信じる信仰者でした。それでも目に見えるしるしを求めるのは、あまりにも貧しく程度の低い信仰だったからです。

2.悟れない弟子たち

弟子たちは、先の奇跡で余ったパンを忘れてきたことに心が向いていました。そして弟子たちどうしで、忘れたのは誰のせいかと責任のなすりつけ合いを始めます。そして「わたしが言おうとしていることを悟れないとは何となさけないことか」とイエスさまをがっかりさせます。私たちも心を自分の思いに占領されることなく、全ての出来事に御手をのばされている主を覚えましょう。そうして主の導きを悟ることのできる信仰者でありたいと教えられます。

3.パリサイ人とヘロデのパン種

イエスさまは、ここでパリサイ人のパン種とヘロデのパン種につて述べられました。心の奥にある自分の思いや考えがパリサイ人のパン種です。またこの世の事柄に引っ張られる思いや心がヘロデのパン種です。イエスさまはこれらのパン種に早く気づいて、これらを治め、神さまに思いを向けていくようにと、弟子たちに注意を促されたのでした。私たちも自分の中に働こうとするパン種の怖さを知り、上から与えられる信仰のみに目を向けて歩んで行くことが大切です。

2024818日 週報より

2024年8月11日日曜日

信仰の用い方

聖書箇所 マルコによる福音書81-10

弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。           マルコによる福音書84

1.繰り返された奇跡

弟子たちは前回の5,000人の奇跡で経験したことを、 今回の場面で生かせませんでした。それは弟子たちが5,000人の奇跡を非日常的なものとして受け取っていたからでした。人は日常的なことは覚えていても非日常的なことは忘れやすいのです。イエスさまは今度こそ、弟子たちの信仰の経験となるように4,000人の奇跡をなされました。

2.信仰経験の大切さ

私たちは出来事を通して、神さまの助けと導きをいただきながら力づけられていく経験をします。これが信仰の経験となります。これを妨げる原因は三つです。第一は、霊的事実の見過ごしです。出来事の中での神さまの働きが見えないことです。第二は、信仰経験とならないことです。神さまが何を教えておられるか悟れなければ信仰経験となりません。第三は、信仰経験が自分の内にとどまらないことです。経験が心()に刻まれないので、忘れて呼び起こせなくなります。

3.信仰を働かせるために

それでは私たちは、どうすればよいのでしょうか。まずは出来事を神さまとの関係性の中で受けとめていくことです。神さまが、助け、慰め、励ましてくださった多くのことを心にとどめて、これらが信仰経験となるように祈っていきます。そして日々の生活でこれらの信仰経験を引きだして、確認していきます(あの時神さまはあんな風に守ってくださった等)。こうして神さまがしてくださったことを上書きするのです。そうすれば、信仰の経験を霊に刻み、とどまった経験を必要に応じて引き出しながら信仰を働かせることができるのです。

2024811日 週報より

2024年8月4日日曜日

世の束縛からの解放

聖書箇所 マルコによる福音書731-37

天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。マルコによる福音書734

1.イエスさまの口止め

イエスさまは癒しをされた後に「この事を誰にも言わないように」と言われました。癒しだけが強調されて伝わることのないためでした。しかし人々は、癒しの素晴らしさに感動して、言い広めてしまいます。自分の思いや考えで突き進んでしまうのではなくて、神さまのお心をいつも意識して歩むことの大切さが教えられています。

2.イエスさまのため息

「ため息をつき」は別の訳では「深く息をして」となっています。イエスさまはこの人の悩みや苦しみをご自身に負われました。そして信仰に導かれるようにとの思いが深い息となりあらわれたのでしょう。イエスさまは私たちの悩みや苦しみもご自身で負い、深い息をされて、神さまとの間で常にとりなしてくださっています。なんという幸い、なんという恵みなのでしょう。

3.イエスさまの「エパタ」の声

「エパタ」は「開けよ」という意味です。ここではイエスさまが、この人の耳や口を閉じた何者かに向かって言われたように感じられます。書かれていないのではっきりとは言えませんが、「彼の耳や口を閉ざすのはやめて早く開けるように」と言われたと考えられます。

実はこの世はサタンの支配下にあります。サタンは人々を世につなぎとめて、神さまに目を向けさせないようにしています。人は自分の力でこの束縛を解くことができません。しかしイエスさまは「エパタ(開けよ)」と言って、私たちをこの世の束縛から解放してくださいます。私たちはイエスさまを信じることで、神さまに目を向け、本来の人としての正しい歩みをする喜びをいただくことができるのです。

202484日 週報より

2024年7月28日日曜日

祈りがこたえられる信仰

聖書箇所:マルコによる福音書724-30

すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。                       マルコによる福音書728

1.スロ・フェニキヤの女性

イエスさまは、ツロ(ローマの属州シリヤ)に行かれます。反発してくるパリサイ人や願いばかりを要求してくる群衆から一旦退かれました。彼らはまだ福音を受け入れられる状況ではありませんでした。しかし神さまから遠いはずの異邦人の地で、イエスさまはすでに福音を受け入れることのできる信仰の民を見ることになります。それがスロ・フェニキヤの女性でした。

2.小犬だと認めた女性

イエスさまのたとえで「子供」はユダヤ人のこと、そして「小犬」は、この女性を含む異邦人でした。イエスさまは「子供のものを、小犬にやるのは良くない」と女性の求めを拒否されました。しかし彼女は、自分を小犬だと認め、「子供たちが落としたパンくずをいただけたらそれで十分です」と答えます。そんな彼女に神さまのあわれみが注がれて、彼女の願い通り娘から悪霊が追い出されました。

3.信仰を引き出された女性

この女性は、冷たく突き放したかのようなイエスさまのお言葉に反発せずに、それなら小犬としてパンくずをいただけるとの信仰に導かれました。彼女はただ神さまのあわれみにすがるしかない者であることを自覚し、イエスさまの導きを素直に受け入れました。この女性のようにイエスさまは私たちをあらゆる機会を通して導き続けてくださっています。導きが必ずしも自分の思い通りではなかったとしても、素直に従うことで祈りがこたえられる信仰に立たせていただけます。それは神さまのお心にそった祈りのできる信仰者の姿です。

2024728日 週報より

2024年7月21日日曜日

パリサイ人の思い違い

聖書箇所 マルコによる福音書714-23

これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。      マルコによる福音書723

1.人の本質

霊なる神さまに似せて造られた人の本質は霊です。しかしアダムとエバが罪を犯して以来、人の本質である霊は罪に支配されて、人は神さまに逆らい悪い方に傾くようになりました。パリサイ人たちは、罪に支配された状態でも律法の定めを守っていれば神さまの前にきよいとされて受け入れられると考えていました。しかし彼らはその出発点に問題があることに気づいていませんでした。

2.肉の人と霊の人

イエスさまは、「けがれた食べ物が人をけがすのではない。人はもとのきよい霊が罪の支配で肉体から来る欲におおわれた肉の人となり、悪い思いで満たされるのです。この悪い思いが人をけがすのです」と言われました。霊を回復させてくださるイエスさまの十字架の犠牲、そして聖霊の助けがなければ、私たちは決してもとのきよい霊の人に戻ることはできません。霊の本質に戻ることなしに、いくら汚れた物を避けてもただ滅びに捨て置かれる存在でしかないのです。

3.けがし合う人でなく

私たちは案外、自分の中から良いものも出てくると思っていないでしょうか。イエスさまは、人から出てくるものは、人をけがすものでしかないと言われます。肉の人は、神の前にけがれた者であるだけではなく、互いにけがし合って、益々神さまから遠ざかります。信仰者にも尚、肉体から来る欲は残ります。しかし、イエスさまと聖霊が本来の霊の人を回復し、保たれるのです。霊の人にされたこの恵みを喜ぶ選択をいたしましょう。み言葉をかたく信じ、イエスさまと聖霊にたよる者は世の勝利者として神さまの栄光を受ける者となります。

2024721日 週報より

2024年7月14日日曜日

ごまかさないで

聖書箇所:マルコによる福音書71-13

こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。

                             マルコによる福音書713

1.偽善者と言われた人々

ユダヤ教の指導者たちは、弟子たちがきよめの洗いをせずに食事をしているのを律法違反だとして、指導者であるイエスさまを問い詰めます。 しかしイエスさまは彼らに「あなたがたは偽善者だ」と厳しい非難をされました。偽善者とはうわべだけの善行を行う人です。彼らが信仰に熱心であっても偽善者となる理由は何でしょうか。

2.偽善者となった理由

1)思い違い:彼らは聖書のみ言葉の理解が難しい所に具体的な決まりを定めて対応していました。そうして聖書のみ言葉より、人がつくった決まりを優先するようになりました。

2)理屈の優先:人は頭で理解し納得できるものを好みます。しかし、人間の理性や感覚は肉体の欲や思いから来ます。彼らは人の理屈で霊なる神さまの思いを曲げて誤った解釈をしていました。

3)自己満足:彼らは人が決めた決まりを100%守っていることで、完全な信仰に歩んでいると自己満足していました。しかもそれを神さまが喜ばれているかどうかを考えることも、心を神さまに向けることもしていませんでした。

3.偽善者のごまかし

彼らは信仰的に見えるように人をごまかしていました。また決まりを守ることが信仰的だと思い込むように自分たちをもごまかしていました。私たちにはそのようなごまかしはないでしょうか。もし罪を示されたら神さまに罪の赦しを得ましょう。その上で罪を犯さないように神さまの助けを求め、神さまに心を向けていくのが偽善的な信仰者にならないための歩みだと教えられています。

2024714日 週報より

2024年7月7日日曜日

霊的成長をさまたげるもの

聖書箇所 マルコによる福音書653-56

その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。                                                                 マルコによる福音書655

今日の箇所で見られる人々の不信仰な姿から、霊的な歩みを妨げるものについて見てみましょう。

1.ご利益信仰

ご利益信仰とは、自分の思いの達成のためだけに神さまを利用したいと願うことです。しかし私たちが目を向けるべきは、人を永遠の滅びに向かわせている罪からの解放です。罪の救い主であるイエスさまを信頼して仰ぐことです。自分のために利用する神さまへの向かい方ではなくて、自分を神さまに用いていただくために神さまに自分を明け渡していくことが大切です。

2.常に自分に向かう目線

人々はあまりにも自分自身に目を向けすぎていました。そうなると肉の欲は活発に活動しますが、霊は働かなくなります。私たちがまず神さまに目を向ける時に、自分がいかに神さまのお心にふさわしくない、愚かでみじめな者であるかを知らされ、ただ神さまの前にひれ伏すしかできなくなります。すると私たちの霊が働き始めるのです。

3.自己中心の思い

目線が常に自分に向かえば、自己中心的な思いに満たされます。人を無視して自分のしたい放題になるのです。肉の欲から来る思いは、気づかないうちに自己中心の思いをおこさせます。そしてご利益信仰へと向かわせます。肉の思いに対抗できるのは聖霊だけです。聖霊を意識し、聖霊の助けでお言葉から力をいただき、またお言葉に従うことで、強力な肉の思いから解放されるのです。そうすれば目線は神さまに向き、思いは神さま中心となり、霊的な成長を続けられます。

2024年7月7日 週報より

2024年6月30日日曜日

霊的成長

聖書箇所 マルコによる福音書645-52

しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。                  マルコによる福音書650

1.人々と弟子たちのための祈り

イエスさまは人々を解散させ、弟子たちを向こう岸に送り出した後、祈るために山へ退かれました。五つのパンと二ひきの魚の奇跡を通して人々が信仰に導かれ、弟子たちの信仰が強められるように父なる神さまに祈る必要を覚えられたのでしょう。父なる神さまが人々の霊そのものを捉えてくださり、育んでくださらなければ、なされた奇跡も意味がないことをイエスさまは良くわかっておられました。

2.弟子たちのための奇跡

弟子たちは宣教の働きやパンと魚の奇跡によって、神さまの力の素晴らしさと必要を経験しました。しかし今、湖上の逆風の中で自分たちの力だけで必死に舟を進めようとしていました。イエスさまはそんな弟子たちをあわれまれます。イエスさまは夜の湖上の弟子たちの出来事を見通し、湖の上を歩き、舟に乗り込んで逆風をしずめるという三つの奇跡をなされます。これらは弟子たちが信仰を働かせ神さまに頼るきっかけを与えるための奇跡でした。

3.弟子たちと私たちの霊的成長

培われたはずの弟子たちの信仰はどこかに行ってしまっていました。信仰による経験をその場限りでしまい込んでしまったからです。私たちの信仰経験も肉の思いに覆われ、しまい込まれてしまいやすいのです。これを避けるには、与えられる経験のすべてが信仰に意味あるものとしていくことです。霊的成長とは、霊的感度の高い状態を維持し、肉の思いに覆われる時間を短くすることです。そのために聖霊を意識して、お言葉を霊の力としていただき続けるのです。こうして聖霊は、悟ることのできない私たちの心を開いてくださいます。

2024年6月30日 週報より


2024年6月23日日曜日

あわれんでくださる神さま

聖書箇所 マルコによる福音書635-44

弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。                      マルコによる福音書637

1.訓練を生かせなかった弟子たち

弟子たちが伝道の働きを終えたすぐ後、イエスさまは人々に教えをされていました。夕暮れ時となり、人々を解散させて食事させようと提案する弟子たちにイエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われます。弟子たちは訓練としての働きの中で、神さまの力による人々への癒しを経験しました。イエスさまは弟子たちが自分たちで食物を与えられるように再び神さまの力に頼ることを期待されていました。しかし弟子たちはその経験を生かせませんでした。

2.あわれみにより満たされた人々

イエスさまは、飼う者のない羊のような人々を深くあわれまれました。今ようやく霊が養われ始めた人々のために、霊の満たしに加えて肉体の満たしも神さまが与えてくださることを目の前で実現されようとしていました。私たちもお言葉にかたく信頼して神さまに向かっているならば、神さまはあわれみによってこの世の必要をかならず満たしてくださいます。それがすぐに示されなくても神さまのあわれみを確信して歩むのが私たちの信仰だと教えられています。

3.祈りについて示されている私たち

イエスさまは弟子たちが自分たちで食物を与えられるように祈ることを期待されていました。そうであれば私たちも不可能を可能にされる神さまに何でも祈り求めていくことが正しいのでしょうか。それともそれは自分本位な不信仰な要求なのでしょうか。残念ながら私たちにはこの境界線が分かりません。そこで私たちは不可能に思えることであっても神さまが必要とお考えになるなら、こたえてくださると信じて祈ることが大切です。そしてあとは神さまの御心にお任せしてしまうのです。これが私たちの信仰の態度、願いの祈りの姿勢です。

2024623日週報より 

2024年6月16日日曜日

父親とは

聖書箇所 ルカによる福音書1511-24

立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。                                                      ルカによる福音書1518

1.理想の父親とは

放蕩し落ちぶれて帰って来た息子の帰宅を、父親は喜び、文句ひとつ言わず迎え入れます。もちろん父親は子どもを正しく教え導く必要があります。ですが父親は子どもの性格や持って生まれたものを変えることはできません。子どもを自分とは違う1人の人として受け入れて、子どもを思いやり、そして子どもが傷ついて帰って来たときには温かく迎え入れる父親像がここに示されています。

2.父親の役割とは

聖書は父親が額に汗して働き、家族を養うようにと言います。また子供を正しく教え導くのも大切な父親の役割です。さらに夫として妻の弱さを認めて愛し、また尊敬するようにとも言われています。そんな多くの役割を担うお父さんが頼れる基準、善悪の完全な物差しが聖書です。聖書に頼るならば、「あの時と今で言うことが違う」と子供たちをいらいらさせることもありません。また夫婦の関係にも必ず良い影響を与えます。

3.父なる神さまに立ち帰る

しかし、人はだれも聖書に完全には従えません。人は皆、罪があるからです。盗むとか人を傷つけるだけでなく人の愚かさ、弱さ、赦せない心、自己中心などもすべて罪です。今日の箇所では弟息子が、自分の罪を認めて父親のもとに帰ります。私たちも自分の罪を認めて、父なる神さまのもとに帰る必要があります。神さまは、私たち11人を今日見た父親のように抱きしめたいと願っておられます。それを邪魔しているのが罪です。この罪が赦されて父なる神さまのもとに帰る道はただ一つです。神さまの御子イエスさまを信じることです。

2024616日 週報より

2024年6月9日日曜日

まことの牧者イエス

聖書箇所 マルコによる福音書630-34

飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。                                                                                              マルコによる福音書634

1.神さまに用いられる幸い

弟子たちは人々に接しながら、悪霊を追い出し、病をいやし、神さまのみ言葉を伝えました。こうして自分を通して神さまが働かれる経験をしました。神さまは人を通して働かれます。「神さま、私を用いてください」と神さまの前に自分を差し出す者を神さまは用いてくださり、驚きと喜びに満たされる経験を与えてくださいます。

2.神さまの前に静まる大切さ

イエスさまは弟子たちの報告を聞かれて、弟子たちに休息とらせようとされます。霊を養いまた、体を休める時を与えるためでした。さらにイエスさまは、弟子たちの興奮状態を覚まそうとされました。興奮は人を高ぶらせ、サタンに足をすくわれやすくするのです。一旦静まり、経験したことや今置かれている状況の中で、神さまの自分への導きが何であるかを見つめるのです。そうして静まって神さまと向き合うことで、私たちの魂が探られ整えられていきます。

3.牧者のいない羊のような群衆

弟子たちとの静まる時を持とうとされたイエスさまでしたが、群衆が押し迫ってきました。イエスさまは、「飼う者のない羊のような有様」の彼らをあわれんで、教えを始められました。羊には良い牧者が必要です。彼らは自分で自分を養えないからです。民たちにも霊的な養いをする良い牧者が必要でした。しかし当時、神さまのお言葉で民たちを養う良い牧者となる指導者はいなかったのです。そこでイエスさまは良い牧者として、民の霊を養おうとされたのです。まことの牧者であるイエスさまは、羊である私たちをみ言葉で霊的に養い、私たちが神さまを求めるように導かれます。そうして私たちが神さまに用いられることを喜ぶことができるようにしてくださいます。

202469日 週報より

2024年6月2日日曜日

キリストの前に立つ

聖書箇所 マルコによる福音書614-29

ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。                                                                     マルコによる福音書616

1.救い主を受け入れられない人々

多くの人々がイエスさまを預言者だとしていました。ナザレの人々同様にメシヤ(救い主)が大工から出るはずはないとの思い込みがあったのです。また彼らは、イエスさまを預言者としておきたかったのです。預言者であれば、自分たちの信仰の在り方や立場が守られると考えていました。メシヤを受け入れるということは、全てを新しく造り変えてくださいと自分自信を差し出すことになるからです。

2.救い主を受け入れられないヘロデ

ヘロデは、バブテスマのヨハネが、正しい人だと受けとめていました。しかし妻ヘロデヤの策略でヨハネを殺したので、彼は正しい人を殺した罪意識に縛られました。しかもイエスさまがメシヤであるという真理に全く気付けませんでした。ヘロデが特別ではありません。今でも多くの人がこの世に捕われて、永遠の滅びに向かっているという真理に気づかないのです。しかしイエスさまを信じて罪赦された私たちは、真理をみつめて世に流されることのない歩みができるのです。

3.救い主を受け入れる信仰

ユダヤの多くの人々は、メシヤではなく預言者を迎える信仰にとどまっていました。またヘロデにいたっては大切なことが全く見えていませんでした。私たちはどうでしょうか。イエスさまを信じていても自分の力で大丈夫だと思っている部分はないでしょうか。そうではなくて、「主よ、罪だらけでどうしようもない私を全部受け入れてください、全て委ねますから私のすべてを造り変えてください。あなたにはその力があります」とこのように信じて求め続けていくこと、これがメシヤなるイエス・キリストの前に立つ信仰者の姿なのです。

202462日 週報より 

2024年5月26日日曜日

十二弟子の訓練

聖書箇所 マルコによる福音書66b-13

また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、                         マルコによる福音書67

1.伝道に遣わされた弟子たち

イエスさまは付近の村々の人々に教えられました。それは伝道のためであり、またその様子を弟子たちが見て学ぶ機会を与えるためでもあったようです。このあとイエスさまは、弟子たちを伝道に遣わされます。イエスさまは救いのみわざを完了されれば天に帰られます。その後、人々に救いのみわざの意味と恵みを伝えるのは、弟子たちだけでなす働きとなります。イエスさまはそのための訓練として、弟子たちを本番さながらの条件で送り出されています。

2.弟子たちが学ぶべきこと

弟子たちがこの訓練で何を学ぶべきかは、悪霊を制する権威と限定された持ち物によって知ることができます。まずこの働きが神さまの権威により、人々を悪しきもの(ここでは悪霊、のちにはサタンの支配するこの世と罪)から解放する神さまの働きだと知る必要がありました。また限定された持ち物によって、働きに必要なものは神さまがすべて満たし、養ってくださることを学ぶようにされました。それは弟子たちが神さまの前に砕かれた心で、人々に向かうためでした。

3.結果は神さまの御手に

迎える家が一軒もないなら、足の裏のちりを払い落とすように言われています。「抗議のしるしに」とは「証しのために」という意味です。「後のことは神さまにお任せします」というしるしということです。伝道の結果は神さまの御手にあり、伝える者は神さまの道具なのです。道具は人を裁きません。相手に腹を立てて恨んだり、裁いたりするのではなくて、結果を神さまにお渡しするのです。足のちりを払うのは、そのことのしるしなのだと教えられています。

2024526日 週報より

2024年5月19日日曜日

ナザレの人々の不信仰

聖書箇所 マルコによる福音書61-6a

イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。                       マルコによる福音書64

1.救い主を受け入れないナザレの人々

ナザレの人々は救い主イエスさまを受け入れられませんでした。その理由を3つあげます。理由:無学であった-イエスさまが誰もが知る先生に学んだのであれば、納得できたのかもしれません。理由:幼い頃から知っていた-幼い時から良く知り、以前と変わらない姿のイエスさまを救い主として見ることができませんでした。理由:家族を知っていた-イエスさまの家族が普通の人々であり、そんな家族の1人が救い主だとはとても思えなかったのです。

2.自らつまずいたナザレの人々

ナザレの人々に信仰がなかったわけではありません。皆、安息日の礼拝を守っていました。彼らはイエスさまの権威に満ちた教えを聞き、また他地域でなされた奇跡のみわざのことも知っていたでしょう。しかし自分たちで「あの大工のイエス」という障害物を救い主の前に置いて、つまずいてしまったのです。私たちも自らつまずいて不信仰に陥る愚かさや弱さがをあることを自覚する必要があります。

3.力あるわざを受けなかったナザレの人々

イエスさまは力あるわざをナザレの人々に一つもすることができませんでした。これはイエスさまがナザレの人々の態度にあきれて、意地悪をされたのではありません。そうしたくてもできなかったのです。彼らに求めがなかったからです。神さまは私たちに力あるわざをなそうといつも用意してくださっています。しかし私たちの側で受け取っていこうとする姿勢がなければ、神さまは何もすることができないのです。私たちは全能なる神さまを信頼し、自ら求めてその力を受け取ろうとする信仰者でありたいと思わされます。

2024年5月19日 週報より