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2024年7月21日日曜日

パリサイ人の思い違い

聖書箇所 マルコによる福音書714-23

これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。      マルコによる福音書723

1.人の本質

霊なる神さまに似せて造られた人の本質は霊です。しかしアダムとエバが罪を犯して以来、人の本質である霊は罪に支配されて、人は神さまに逆らい悪い方に傾くようになりました。パリサイ人たちは、罪に支配された状態でも律法の定めを守っていれば神さまの前にきよいとされて受け入れられると考えていました。しかし彼らはその出発点に問題があることに気づいていませんでした。

2.肉の人と霊の人

イエスさまは、「けがれた食べ物が人をけがすのではない。人はもとのきよい霊が罪の支配で肉体から来る欲におおわれた肉の人となり、悪い思いで満たされるのです。この悪い思いが人をけがすのです」と言われました。霊を回復させてくださるイエスさまの十字架の犠牲、そして聖霊の助けがなければ、私たちは決してもとのきよい霊の人に戻ることはできません。霊の本質に戻ることなしに、いくら汚れた物を避けてもただ滅びに捨て置かれる存在でしかないのです。

3.けがし合う人でなく

私たちは案外、自分の中から良いものも出てくると思っていないでしょうか。イエスさまは、人から出てくるものは、人をけがすものでしかないと言われます。肉の人は、神の前にけがれた者であるだけではなく、互いにけがし合って、益々神さまから遠ざかります。信仰者にも尚、肉体から来る欲は残ります。しかし、イエスさまと聖霊が本来の霊の人を回復し、保たれるのです。霊の人にされたこの恵みを喜ぶ選択をいたしましょう。み言葉をかたく信じ、イエスさまと聖霊にたよる者は世の勝利者として神さまの栄光を受ける者となります。

2024721日 週報より

2024年7月14日日曜日

ごまかさないで

聖書箇所:マルコによる福音書71-13

こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。

                             マルコによる福音書713

1.偽善者と言われた人々

ユダヤ教の指導者たちは、弟子たちがきよめの洗いをせずに食事をしているのを律法違反だとして、指導者であるイエスさまを問い詰めます。 しかしイエスさまは彼らに「あなたがたは偽善者だ」と厳しい非難をされました。偽善者とはうわべだけの善行を行う人です。彼らが信仰に熱心であっても偽善者となる理由は何でしょうか。

2.偽善者となった理由

1)思い違い:彼らは聖書のみ言葉の理解が難しい所に具体的な決まりを定めて対応していました。そうして聖書のみ言葉より、人がつくった決まりを優先するようになりました。

2)理屈の優先:人は頭で理解し納得できるものを好みます。しかし、人間の理性や感覚は肉体の欲や思いから来ます。彼らは人の理屈で霊なる神さまの思いを曲げて誤った解釈をしていました。

3)自己満足:彼らは人が決めた決まりを100%守っていることで、完全な信仰に歩んでいると自己満足していました。しかもそれを神さまが喜ばれているかどうかを考えることも、心を神さまに向けることもしていませんでした。

3.偽善者のごまかし

彼らは信仰的に見えるように人をごまかしていました。また決まりを守ることが信仰的だと思い込むように自分たちをもごまかしていました。私たちにはそのようなごまかしはないでしょうか。もし罪を示されたら神さまに罪の赦しを得ましょう。その上で罪を犯さないように神さまの助けを求め、神さまに心を向けていくのが偽善的な信仰者にならないための歩みだと教えられています。

2024714日 週報より

2024年7月7日日曜日

霊的成長をさまたげるもの

聖書箇所 マルコによる福音書653-56

その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。                                                                 マルコによる福音書655

今日の箇所で見られる人々の不信仰な姿から、霊的な歩みを妨げるものについて見てみましょう。

1.ご利益信仰

ご利益信仰とは、自分の思いの達成のためだけに神さまを利用したいと願うことです。しかし私たちが目を向けるべきは、人を永遠の滅びに向かわせている罪からの解放です。罪の救い主であるイエスさまを信頼して仰ぐことです。自分のために利用する神さまへの向かい方ではなくて、自分を神さまに用いていただくために神さまに自分を明け渡していくことが大切です。

2.常に自分に向かう目線

人々はあまりにも自分自身に目を向けすぎていました。そうなると肉の欲は活発に活動しますが、霊は働かなくなります。私たちがまず神さまに目を向ける時に、自分がいかに神さまのお心にふさわしくない、愚かでみじめな者であるかを知らされ、ただ神さまの前にひれ伏すしかできなくなります。すると私たちの霊が働き始めるのです。

3.自己中心の思い

目線が常に自分に向かえば、自己中心的な思いに満たされます。人を無視して自分のしたい放題になるのです。肉の欲から来る思いは、気づかないうちに自己中心の思いをおこさせます。そしてご利益信仰へと向かわせます。肉の思いに対抗できるのは聖霊だけです。聖霊を意識し、聖霊の助けでお言葉から力をいただき、またお言葉に従うことで、強力な肉の思いから解放されるのです。そうすれば目線は神さまに向き、思いは神さま中心となり、霊的な成長を続けられます。

2024年7月7日 週報より

2024年6月30日日曜日

霊的成長

聖書箇所 マルコによる福音書645-52

しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。                  マルコによる福音書650

1.人々と弟子たちのための祈り

イエスさまは人々を解散させ、弟子たちを向こう岸に送り出した後、祈るために山へ退かれました。五つのパンと二ひきの魚の奇跡を通して人々が信仰に導かれ、弟子たちの信仰が強められるように父なる神さまに祈る必要を覚えられたのでしょう。父なる神さまが人々の霊そのものを捉えてくださり、育んでくださらなければ、なされた奇跡も意味がないことをイエスさまは良くわかっておられました。

2.弟子たちのための奇跡

弟子たちは宣教の働きやパンと魚の奇跡によって、神さまの力の素晴らしさと必要を経験しました。しかし今、湖上の逆風の中で自分たちの力だけで必死に舟を進めようとしていました。イエスさまはそんな弟子たちをあわれまれます。イエスさまは夜の湖上の弟子たちの出来事を見通し、湖の上を歩き、舟に乗り込んで逆風をしずめるという三つの奇跡をなされます。これらは弟子たちが信仰を働かせ神さまに頼るきっかけを与えるための奇跡でした。

3.弟子たちと私たちの霊的成長

培われたはずの弟子たちの信仰はどこかに行ってしまっていました。信仰による経験をその場限りでしまい込んでしまったからです。私たちの信仰経験も肉の思いに覆われ、しまい込まれてしまいやすいのです。これを避けるには、与えられる経験のすべてが信仰に意味あるものとしていくことです。霊的成長とは、霊的感度の高い状態を維持し、肉の思いに覆われる時間を短くすることです。そのために聖霊を意識して、お言葉を霊の力としていただき続けるのです。こうして聖霊は、悟ることのできない私たちの心を開いてくださいます。

2024年6月30日 週報より


2024年6月23日日曜日

あわれんでくださる神さま

聖書箇所 マルコによる福音書635-44

弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。                      マルコによる福音書637

1.訓練を生かせなかった弟子たち

弟子たちが伝道の働きを終えたすぐ後、イエスさまは人々に教えをされていました。夕暮れ時となり、人々を解散させて食事させようと提案する弟子たちにイエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われます。弟子たちは訓練としての働きの中で、神さまの力による人々への癒しを経験しました。イエスさまは弟子たちが自分たちで食物を与えられるように再び神さまの力に頼ることを期待されていました。しかし弟子たちはその経験を生かせませんでした。

2.あわれみにより満たされた人々

イエスさまは、飼う者のない羊のような人々を深くあわれまれました。今ようやく霊が養われ始めた人々のために、霊の満たしに加えて肉体の満たしも神さまが与えてくださることを目の前で実現されようとしていました。私たちもお言葉にかたく信頼して神さまに向かっているならば、神さまはあわれみによってこの世の必要をかならず満たしてくださいます。それがすぐに示されなくても神さまのあわれみを確信して歩むのが私たちの信仰だと教えられています。

3.祈りについて示されている私たち

イエスさまは弟子たちが自分たちで食物を与えられるように祈ることを期待されていました。そうであれば私たちも不可能を可能にされる神さまに何でも祈り求めていくことが正しいのでしょうか。それともそれは自分本位な不信仰な要求なのでしょうか。残念ながら私たちにはこの境界線が分かりません。そこで私たちは不可能に思えることであっても神さまが必要とお考えになるなら、こたえてくださると信じて祈ることが大切です。そしてあとは神さまの御心にお任せしてしまうのです。これが私たちの信仰の態度、願いの祈りの姿勢です。

2024623日週報より 

2024年6月16日日曜日

父親とは

聖書箇所 ルカによる福音書1511-24

立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。                                                      ルカによる福音書1518

1.理想の父親とは

放蕩し落ちぶれて帰って来た息子の帰宅を、父親は喜び、文句ひとつ言わず迎え入れます。もちろん父親は子どもを正しく教え導く必要があります。ですが父親は子どもの性格や持って生まれたものを変えることはできません。子どもを自分とは違う1人の人として受け入れて、子どもを思いやり、そして子どもが傷ついて帰って来たときには温かく迎え入れる父親像がここに示されています。

2.父親の役割とは

聖書は父親が額に汗して働き、家族を養うようにと言います。また子供を正しく教え導くのも大切な父親の役割です。さらに夫として妻の弱さを認めて愛し、また尊敬するようにとも言われています。そんな多くの役割を担うお父さんが頼れる基準、善悪の完全な物差しが聖書です。聖書に頼るならば、「あの時と今で言うことが違う」と子供たちをいらいらさせることもありません。また夫婦の関係にも必ず良い影響を与えます。

3.父なる神さまに立ち帰る

しかし、人はだれも聖書に完全には従えません。人は皆、罪があるからです。盗むとか人を傷つけるだけでなく人の愚かさ、弱さ、赦せない心、自己中心などもすべて罪です。今日の箇所では弟息子が、自分の罪を認めて父親のもとに帰ります。私たちも自分の罪を認めて、父なる神さまのもとに帰る必要があります。神さまは、私たち11人を今日見た父親のように抱きしめたいと願っておられます。それを邪魔しているのが罪です。この罪が赦されて父なる神さまのもとに帰る道はただ一つです。神さまの御子イエスさまを信じることです。

2024616日 週報より

2024年6月9日日曜日

まことの牧者イエス

聖書箇所 マルコによる福音書630-34

飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。                                                                                              マルコによる福音書634

1.神さまに用いられる幸い

弟子たちは人々に接しながら、悪霊を追い出し、病をいやし、神さまのみ言葉を伝えました。こうして自分を通して神さまが働かれる経験をしました。神さまは人を通して働かれます。「神さま、私を用いてください」と神さまの前に自分を差し出す者を神さまは用いてくださり、驚きと喜びに満たされる経験を与えてくださいます。

2.神さまの前に静まる大切さ

イエスさまは弟子たちの報告を聞かれて、弟子たちに休息とらせようとされます。霊を養いまた、体を休める時を与えるためでした。さらにイエスさまは、弟子たちの興奮状態を覚まそうとされました。興奮は人を高ぶらせ、サタンに足をすくわれやすくするのです。一旦静まり、経験したことや今置かれている状況の中で、神さまの自分への導きが何であるかを見つめるのです。そうして静まって神さまと向き合うことで、私たちの魂が探られ整えられていきます。

3.牧者のいない羊のような群衆

弟子たちとの静まる時を持とうとされたイエスさまでしたが、群衆が押し迫ってきました。イエスさまは、「飼う者のない羊のような有様」の彼らをあわれんで、教えを始められました。羊には良い牧者が必要です。彼らは自分で自分を養えないからです。民たちにも霊的な養いをする良い牧者が必要でした。しかし当時、神さまのお言葉で民たちを養う良い牧者となる指導者はいなかったのです。そこでイエスさまは良い牧者として、民の霊を養おうとされたのです。まことの牧者であるイエスさまは、羊である私たちをみ言葉で霊的に養い、私たちが神さまを求めるように導かれます。そうして私たちが神さまに用いられることを喜ぶことができるようにしてくださいます。

202469日 週報より

2024年6月2日日曜日

キリストの前に立つ

聖書箇所 マルコによる福音書614-29

ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。                                                                     マルコによる福音書616

1.救い主を受け入れられない人々

多くの人々がイエスさまを預言者だとしていました。ナザレの人々同様にメシヤ(救い主)が大工から出るはずはないとの思い込みがあったのです。また彼らは、イエスさまを預言者としておきたかったのです。預言者であれば、自分たちの信仰の在り方や立場が守られると考えていました。メシヤを受け入れるということは、全てを新しく造り変えてくださいと自分自信を差し出すことになるからです。

2.救い主を受け入れられないヘロデ

ヘロデは、バブテスマのヨハネが、正しい人だと受けとめていました。しかし妻ヘロデヤの策略でヨハネを殺したので、彼は正しい人を殺した罪意識に縛られました。しかもイエスさまがメシヤであるという真理に全く気付けませんでした。ヘロデが特別ではありません。今でも多くの人がこの世に捕われて、永遠の滅びに向かっているという真理に気づかないのです。しかしイエスさまを信じて罪赦された私たちは、真理をみつめて世に流されることのない歩みができるのです。

3.救い主を受け入れる信仰

ユダヤの多くの人々は、メシヤではなく預言者を迎える信仰にとどまっていました。またヘロデにいたっては大切なことが全く見えていませんでした。私たちはどうでしょうか。イエスさまを信じていても自分の力で大丈夫だと思っている部分はないでしょうか。そうではなくて、「主よ、罪だらけでどうしようもない私を全部受け入れてください、全て委ねますから私のすべてを造り変えてください。あなたにはその力があります」とこのように信じて求め続けていくこと、これがメシヤなるイエス・キリストの前に立つ信仰者の姿なのです。

202462日 週報より 

2024年5月26日日曜日

十二弟子の訓練

聖書箇所 マルコによる福音書66b-13

また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、                         マルコによる福音書67

1.伝道に遣わされた弟子たち

イエスさまは付近の村々の人々に教えられました。それは伝道のためであり、またその様子を弟子たちが見て学ぶ機会を与えるためでもあったようです。このあとイエスさまは、弟子たちを伝道に遣わされます。イエスさまは救いのみわざを完了されれば天に帰られます。その後、人々に救いのみわざの意味と恵みを伝えるのは、弟子たちだけでなす働きとなります。イエスさまはそのための訓練として、弟子たちを本番さながらの条件で送り出されています。

2.弟子たちが学ぶべきこと

弟子たちがこの訓練で何を学ぶべきかは、悪霊を制する権威と限定された持ち物によって知ることができます。まずこの働きが神さまの権威により、人々を悪しきもの(ここでは悪霊、のちにはサタンの支配するこの世と罪)から解放する神さまの働きだと知る必要がありました。また限定された持ち物によって、働きに必要なものは神さまがすべて満たし、養ってくださることを学ぶようにされました。それは弟子たちが神さまの前に砕かれた心で、人々に向かうためでした。

3.結果は神さまの御手に

迎える家が一軒もないなら、足の裏のちりを払い落とすように言われています。「抗議のしるしに」とは「証しのために」という意味です。「後のことは神さまにお任せします」というしるしということです。伝道の結果は神さまの御手にあり、伝える者は神さまの道具なのです。道具は人を裁きません。相手に腹を立てて恨んだり、裁いたりするのではなくて、結果を神さまにお渡しするのです。足のちりを払うのは、そのことのしるしなのだと教えられています。

2024526日 週報より

2024年5月19日日曜日

ナザレの人々の不信仰

聖書箇所 マルコによる福音書61-6a

イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。                       マルコによる福音書64

1.救い主を受け入れないナザレの人々

ナザレの人々は救い主イエスさまを受け入れられませんでした。その理由を3つあげます。理由:無学であった-イエスさまが誰もが知る先生に学んだのであれば、納得できたのかもしれません。理由:幼い頃から知っていた-幼い時から良く知り、以前と変わらない姿のイエスさまを救い主として見ることができませんでした。理由:家族を知っていた-イエスさまの家族が普通の人々であり、そんな家族の1人が救い主だとはとても思えなかったのです。

2.自らつまずいたナザレの人々

ナザレの人々に信仰がなかったわけではありません。皆、安息日の礼拝を守っていました。彼らはイエスさまの権威に満ちた教えを聞き、また他地域でなされた奇跡のみわざのことも知っていたでしょう。しかし自分たちで「あの大工のイエス」という障害物を救い主の前に置いて、つまずいてしまったのです。私たちも自らつまずいて不信仰に陥る愚かさや弱さがをあることを自覚する必要があります。

3.力あるわざを受けなかったナザレの人々

イエスさまは力あるわざをナザレの人々に一つもすることができませんでした。これはイエスさまがナザレの人々の態度にあきれて、意地悪をされたのではありません。そうしたくてもできなかったのです。彼らに求めがなかったからです。神さまは私たちに力あるわざをなそうといつも用意してくださっています。しかし私たちの側で受け取っていこうとする姿勢がなければ、神さまは何もすることができないのです。私たちは全能なる神さまを信頼し、自ら求めてその力を受け取ろうとする信仰者でありたいと思わされます。

2024年5月19日 週報より

2024年5月12日日曜日

母の愛、母の罪

聖書箇所 列王紀上316-28

しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。                         列王紀上326

1.ふたりの母の争い

2人の母親が1人の赤ちゃんを自分の子だとして争います。その裁判でソロモン王は、赤ちゃんを刀で二つにして2人の母親に与えるように命じます。すると片方の母親が、「赤ちゃんを殺さず別の女性にあげてください」と言います。それを聞いた王さまは、赤ちゃんの本当の母親がこの女性だと見定めます。王さまは、子供を守る母親の愛を良く知っていたので、本当の母親を知ることができたのです。

2.ひとりの女性にみる罪の影響

もう1人の女性は「赤ちゃんをそのまま刀で分けてください」と言いました。これには聖書が言う「罪」が影響しています。制限のきかない手に入れたいと思う強欲、自分は間違って赤ちゃんを死なせるはずがない、自分は正しいと思う自分本位、自分の子にならないなら相手の子にもしてほしくないと思うねたみ、これらは神さまが喜ばれない悪い心、「罪」です。そして聖書はこれらの「罪」がすべての人にあり、どうしても解決しなければならない問題であると言います。

3.イエスさまの愛

聖書には「罪」だけでなく「罪」から救われる道が示されています。それが神さまのひとり子イエスさまの十字架とその後の復活です。 母親が自分を犠牲にしてもわが子を助けたいと思うように、イエスさまは、ご自分を犠牲にしてすべての人が「罪」から救われることを願われました。イエスさまは私たちの「罪」を全部ご自分にきせて、その罰を十字架で受けてくださいました。イエスさまの流された尊い血によって、私たちはこのイエスさまを信じるだけで、私たちにあるすべての「罪」が赦されます。ここにイエスさまの愛があるのです。

2024512日 週報より

2024年5月5日日曜日

信仰を引き出される神さま

聖書箇所 マルコによる福音書525-34

イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。       マルコによる福音書534

1.あわれみ深いイエスさま

女性の病は出血の止まらない婦人病で、当時は人との接触が禁止されていました。しかし彼女は決まりを破って群衆に割り込み、イエスさまの衣服に触れます。イエスさまは彼女の至らない点をよくご存じでしたが、その必死の思いと行動を深くあわれまれて、病を癒されました。私たちも自分の足りなさを覚えて、あわれみ深いイエスさまの前にいつもへりくだる必要を教えられます。

2.目をとめてくださるイエスさま

イエスさまは、この女性がイエスさまを信頼する思いを持って衣服に触れたのをご存じでした。イエスさまはいつも私たちのすべてに目をとめてくださり、必要に応じた力を注いでくださいます。私たちも自分の足りなさを自覚しつつも、この女性のようにイエスさまに触れようとする歩みが必要なのです。そうすれば、問題があってもイエスさまが必要を十分に満たす力を与えてくださるのです。

3.あなたの信仰があなたを救った

「あなたの信仰があなたを救った」とは、女性が衣服に触れるだけで癒されると信じたということではありません。彼女が自分の罪深さを認めて、自分の愚かさを告白し、神さまの前にひれ伏したことを指しています。イエスさまがこの女性の信仰を引き出されたのです。私たちも同じです。イエスさまが私たちを導き出して、神さまの前にありのままの自分を告白できるようにされたのです。私たちに起こるすべてのことは私たちが信仰に立つために、私たちの信仰が引き出されるように神さまが上から与えてくださっているものなのです。

202455日 週報より

2024年4月28日日曜日

神さまをどこまでも信じていますか

聖書箇所 マルコによる福音書521-2435-43

内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。                 マルコによる福音書539

1.決断をした会堂司ヤイロ           

会堂司とは、礼拝(ユダヤ教)を正しく執り行なう監督者です。この時ユダヤ教の指導者たちはイエスさまと敵対していました。ヤイロは立場上、イエスさまにお願いするまでには時間を要したでしょう。途中で娘の死を知ったヤイロは、イエスさまがもっと急いでくださっていたらと思ったでしょう。でも自分の決断までの時間を差しおいてそう思うのは、人の身勝手さであり愚かさなのです。示されたらすぐにイエスさまに従う大切さを教えられています。

2.信仰の制限を外されたヤイロ

確かにヤイロは、イエスさまの癒しの力を信じていました。しかし死んでしまったらさすがにイエスさまでももうダメだと思ったのです。イエスさまはそんな彼に「恐れなくても良い」と声をかけられました。そして娘を生き返らせたのです。ヤイロはこれを見て、自分で設けた信仰の制限が外され、神さまは何でもおできなるお方であることを確信することができたのでした。

3.できないことのない神さま

私たちはどうでしょうか。神さまには不可能はないと信じ切っているでしょうか。私たちは自分の思い通りにいかずに落ち込んでは、目に見える状況をただ恐れてしまいやすい弱い者です。そして知らない間に「さすがに神さまでも…」と自分で制限を設けてしまうのです。神さまは私たちを本気で愛し、私たちのもっとも良い時にもっともよくなるようにお心にかなったことは何でもしてくださるお方です。 信仰の制限を外して、この神さまに益々信頼をおいて歩みましょう。

2024428日 週報より

2024年4月21日日曜日

悪霊を追い出された人の働き

聖書箇所 マルコによる福音書51-20

あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。        マルコによる福音書519

1.けがれた霊につかれた人

ゲラサびとの地についたイエスさまの前にけがれた霊につかれた人がやって来ました。この人は、正常な意識を持ちながらも悪霊に動かされるままになり、それを嘆き悲しむしかない状況でした。罪にとらわれている私たちも同じです。罪の奴隷となり、したい善を行えず、したくない悪を行って神さまに喜ばれないことを重ねているのです。この人は、罪にとらわれた私たちの姿そのものを示しています。

2.ゲラサの人々

この人を狂わせた多くの悪霊を、イエスさまはお言葉一つで従わせられました。しかしそのことで豚の大群が死んだのを見たゲラサの人々は、イエスさまによって豚が失われる経済的損失を恐れました。この世は常に正義よりも安定を求めます。イエスさまに従い正しくあろうとすれば、世からの反発に遭うのです。それでも私たちはイエスさまの喜ばれる選択をする信仰者でありたいと教えられます。

3.ゲラサの人々への証し

悪霊から解放されたこの人にイエスさまは、ゲラサの人々への宣教を託しました。マルコによる福音書の653節以降には、この男性によって地域の宣教が大きく前進した様子が描かれています。イエスさまに立ち去って欲しいと願ったゲラサの人々にイエスさまのことを伝える働きは、悪霊を追い出していただいたこの人にしかできないことでした。イエスさまは私たちが遣わされている場所で、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」を知らせ伝えていくことを願われています。

2024421日 週報より

2024年4月14日日曜日

危機的状況への対処

聖書箇所 マルコによる福音書435-41

そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。              マルコによる福音書438

1.おびえた弟子たち

激しい突風で舟が沈みそうになり、弟子たちは皆おびえました。それは、イエスさまが眠っておられたからです。「私たちが死んでもイエスさまは平気なのか」と弟子たちは思いました。またイエスさまでもこの嵐はどうにもできないと考えました。さらに舟に乗るように言われたイエスさまを責める気持ちがありました。そしてイエスさまを信じる信仰を働かせることができなくなり、おびえたのです。

2.イエスさまへの不満

問題は状況を恐れることではなく、恐れる状況にあって神さまに不満を持ち、文句を言おうとする心でした。不満がつのれば、イエスさまが守り最後は良しとしてくださると信じる心が働かなくなります。置かれた状況がいかに厳しくても「御手の中から引き離されることは絶対にない、イエスさまが最後まで責任をもって導いてくださる」と信じて信仰を働かせることができるかが問われています。

3.イエスさまとともに

危機的状況で信仰を働かせるには、イエスさまに完全にお委ねすることです。自分の無力さを覚える中で、「無に等しい私をただイエスさまが支えてくださっている」と感じ入るのです。そして「イエスさまが私のいのちを握ってくださっている」と確信し、イエスさまに信頼して一歩踏み出します。そうすれば共にいてくださるイエスさまが、すべてを一緒に背負って、いつの間にか乗り越えさせてくださいます。「イエスさま、信じます。無に等しい私ですからともに歩ませてください。」これが委ねて歩むことであり、信仰の働かせ方なのです。

2024414日 週報より