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2026年8月30日日曜日

ひとつのからだ

聖書箇所 コリント人への第一の手紙1212-31

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。コリント1227

1.キリストのからだ

教会は、キリストを信じた一人ひとりが、御霊によって結ばれた 「キリストのからだ」です。そこには必要のない人は一人もおらず、それぞれが大切な部分として置かれています。一つになるために人の力で頑張るのではなく、すでに一つとされている事実を受け入れ、お互いを必要としながら歩むことが大切です。

2.一つのからだにされた理由

私たちが教会という群れに置かれて、一つのキリストのからだにされたのには、理由があります。それは、救われても私たちに残る自己中心の思いが自己尊重の思いに変えられるためです。自己尊重とは、神さまが自分を愛し、必要な者として教会の群れに置いてくださっていることを受け入れて歩むことです。

3.自己中心と自己尊重

自己中心とは「自分がどうしたいか」に従って自分を中心にすることです。しかし自己尊重は、「神さまの必要」によって自分が置かれていると受けとめて、神さまを中心とすることです。キリストにつながって歩むなら、御霊が働きます。自分をキリストのからだの一部分として、また兄弟姉妹を必要な他の部分としても見ることができます。一人の苦しみを皆が共に負い、一人の喜びを皆が共に喜ぶ群れとなれるのです。それは比較や高ぶり、卑下から解放され、お互いを大切にして共に成長する姿です。神さまはそのようなからだ全体をまたその一人ひとりを益々成長させてくださるのです。

2026830日 週報より

2026年3月8日日曜日

主と一つの霊で歩む

聖書箇所 コリント人への第一の手紙612-20

しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。Ⅰコリント617

1.キリスト者の自由

コリントの人々は「キリスト者の自由」を、自分の好きなように生きてよいという意味に取り違えていました。しかしパウロは、罪に振り回されるのは自由ではないと言っています。本当の自由とは、罪から解放され、聖霊に導かれて歩むことです。肉の思いで世的なものにとらわれて、右往左往する状況は真の自由とは言えません。

2.神に用いられる道具

私たちのからだはもともと、罪に用いられる道具でした。しかしキリストのいのち(十字架の犠牲)によって、神さまに用いられる道具へと変えられたのです。そのからだを不品行に用いることは、神さまが尊い犠牲で買いもどしてくださったからだを汚すことになるのです。信じた私たちのからだは、神さま用の道具というだけでなく、すでにキリストのからだの一部分とされているのです。

3.主()と一つの霊

「食物は腹のため、腹は食物のためである」とは両者の密接な関係を示す例として取りあげられています。それと同じように、イエスさまを信じて救われた私たちのからだは、主である神さまのものとされて切り離すことのできない関係だというのです。「主と一つの霊」とされている私たちのからだは、不品行のためではなく、主である神さまのためにあります。それぞれのせいいっぱいで、自分の全存在を神さま用として差し出して、できることを忠実になしていく、これが神さまの栄光を現す生き方となるのです。

202638日 週報より

2026年3月1日日曜日

訴えよりも一致を

聖書箇所 コリント人への第一の手紙67-11

なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。 Ⅰコリント67

1.信仰による勝利

パウロは、教会の兄弟姉妹同士が訴え合うこと自体が信仰者の敗北だと語ります。そして信仰者として、正しさの主張よりも群れの霊的一致を重んじるよう勧めています。世的な勝利を求めて争うことは、神さまに敵対する側に立つことになると言うのです。世の理屈に合わなくとも甘んじて受け入れることこそが、神の前における信仰の勝利であり、信仰者の姿であること教えています。

2.キリストのからだ

信仰者は頭なるキリストのもとで一つのからだとされた存在です。ですからパウロはお互いが切り離せない肢体であると教えています。兄弟姉妹を訴えることは、自らのからだを傷つけ、頭であるキリストをいためる行為なのです。世的な損得や正義感にではなく、キリストのからだの一員としての霊的な自覚に立ち、肉ではなく霊の思いで応対していくことが求められています。

3.キリストに守られる自分

人は本能的に自分で自分のものを守ろうとします。しかし信仰者は信頼するイエス・キリストにまるごと自分を預けてしまう生き方を選びました。それは自分に頼らず、自分のものに固執せず、ただキリストの中にあって神さまの愛と喜びと平安をいただく道です。神の畑となり、神さまの思う通りに手を入れてくださいと自分の畑を差し出したのです。そうであれば、あなたは自分で守ろうとしなくても、キリストによって完全に守られるとパウロは言うのです。

202631日 週報より

2025年5月25日日曜日

神さまからの贈り物

聖書箇所 マルコによる福音書1417-25

イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」。マルコによる福音書1424

1.ユダを追い求めたイエスさま

イエスさまは、弟子の1人がイエスさまを裏切ると言われました。この時他の弟子たちは、ユダの裏切りを悟れませんでした。  イエスさまはユダだけにわかるように、そして他の弟子たちが知って騒がないようにされたのです。ユダにイエスさまに立ち帰るためのチャンスを与えるためです。イエスさまは私たちを愛して、どこまでも追い求め続けてくださるお方なのです。

2.与えられている信仰

この時点でもイエスさまは、ユダに対して愛の御手をのばされ、愛あるお声がけを続けておられました。しかしユダはその御手をはねのけて、自分から滅びの道を選んだのです。このように神さまは、私たちが悟れるように思いを与えて、導き続けてくださいます。  私たちの信仰は、神さまからの働きかけ、神さまからの贈り物なのです。信仰は人の知恵や人の理屈で納得していくものではありません。私たちはただ信じて受け取るだけで良いのです。

3.キリストのからだと血

キリストのからだをいただき、キリストの血を飲むとは象徴的な表現です。これは罪の赦しと、神さまとの関係の回復を喜ぶことです。そしてキリストの花嫁として、イエスさまのお体の一部分とされていることです。この意味と大切さを人の頭で完全に理解し、  納得するのは難しいでしょう。そこで神さまは聖霊を与えてくださいました。聖霊が私たちの理解を助け、神さまが与えられる信仰に立てるようにしてくださるのです。

2025525日 週報より