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2025年3月23日日曜日

神との二人三脚

聖書箇所 マルコによる福音書139-13

また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。マルコによる福音書1313

1.証しするキリスト者

救われた者は、神さまの証し人となります。そして証しをする中で、世からの反発があることも言われています。しかしこのような状況をも神さまは用いられます。それはすべての人々に救いのチャンスを与えるためです。これを聞いて、心を重くする必要はありません。神さまを愛し、兄弟姉妹を愛し、隣人を愛そうと願い歩めば良いのです。あとは神さまが守りと導きを与えてくださいます。

2.証しする聖霊

証しと聞いて何をどう話せばよいかと不安を覚える人は多いかもしれません。でもイエスさまは「思いわずらう必要はない」と教えておられます。信じた私たちには聖霊の助けがあって、お言葉から霊の力が与えられるのです。それで私たちの言葉には聖霊の力が感じられ、聞く相手がその力を受けとめて信じることができるように導かれるのです。すぐに信じることができなくても何かが違うと感じるのです。これが聖霊による証しです。

3.同伴くださる神

私たちが信じて歩み、証しをすることで、世からの反発が必ず起きてきます。だからこそ神さまは証し人の私たちを一人で放置されることはなさいません。神さまは私たちと二人三脚で歩まれます。それは神さまが共に悩み、助け、あわれんでくださり、私たちにその恵みを味あわせてくださる素晴らしい歩みなのです。

2025323日 週報より

2025年3月16日日曜日

あわてないで

聖書箇所 マルコによる福音書131-8

また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。マルコによる福音書137

1.神殿に目をとめた弟子

弟子のひとりは、すばらしい神殿の外観に目が奪われています。神さまのご臨在を示す神殿も、外観だけに目を奪われるなら神さまへの信仰は妨げられます。イエスさまは、神殿の崩壊を預言されています。神殿にすがる弟子たちの思いをイエスさまを神殿とする信仰に向けさせるためでした。私たちも外観や雰囲気によらずに見えない神さまに心を向けることが大切です。

2.前兆を知りたがる弟子

四人の弟子は、神殿の崩壊についてイエスさまに尋ねます。神殿崩壊で信仰の土台も崩れるとの恐れがあったのです。「それは困ります。前もって知っていないと不安です」と自分たちの思いだけで聞いています。これではイエスさまが伝えようとした真意を受けとめることができません。いつも聖霊を意識して、お言葉からそこにある神さまのお心を求めることを教えられています。

3.前兆を語られたイエスさま

イエスさまは、終わりの時の前触れを明らかにされています。多くの偽キリストの出現や戦争、自然災害が起こると言われます。まさに現在の世界を見ているようで、私たちも不安になります。しかし、イエスさまは「あわてるな」と言われています。終わりの日は、確実にやってきます。イエスさまを信じ救われた者は何をも恐れることはありません。神の御手の守りがどこまでもあり、終りの日が私たちの恵みの時となるからです。それが神さまの約束です。

2025316日 週報より

2025年2月16日日曜日

キリストとは

聖書箇所 マルコによる福音書12章35-37節

このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか。マルコによる福音書12章37 節

1.民たちの願う救い主

 イエスさまは「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか」と律法学者たちの教えに疑問を投げかけています。律法学者たちは、救い主であるキリストがダビデ王のように力でローマ帝国から解放してくださると考えていました。しかし彼らは聖書が示すキリストの一面しか見ずに、自分たちの都合の良いようにキリストを解釈し、それを民に教えていたのです。

2.罪からの救い主

イエスさまはダビデの詩篇を引用されました。それはキリストがダビテにとって我が主であって、ダビデの子孫というだけではないということでした。キリストは私たちを罪から解放して、神さまと私たちの平和を導く霊的な王として来られたのです。イエスさまは「今待ち望むべきキリストはこの罪からの救い主なのだ」と、彼らを正しい理解へと導こうとされていました。

3.真の喜びを与える救い主

確かにキリストは王として私たちをご支配(守りと導きを)くださいます。私たちを罪から救い、魂に平安を与える王になられたのです。やがてこの世が終りを迎える時、私たちを守り導く神の国の王として来られます。私たちはこの王なるイエス・キリストを土台として、自分の人生を建て上げることが大切です。イエスさまを信じるだけで、王なるイエスさまの守りと導きをいただいて、人としての真の喜びの人生を歩むことができるのです。

2025年2月16日 週報より


2024年10月27日日曜日

神の国にはいる人

聖書箇所 マルコによる福音書1013-16

よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。                                         マルコによる福音書1015

1.子供と親を戒めた弟子たち

弟子たちは、幼な子をイエスさまのもとに連れてきた人々(おそらく父親たち)に注意します。当時の社会は子供を価値のない、やっかいものと見ていました。まだ一人の人格として認められておらず、未熟な人間とされていました。弟子たちの目にも子どもはイエスさまから祝福をいただく価値のない存在に映っていました。そこで何の疑問をも持たずに、イエスさまをわずらわせないようにと彼らに注意を与えたのです。

2.激しく叱られた弟子たち

しかし弟子たちはイエスさまから激しく叱られます。イエスさまは、子供たちの信仰が育まれていくことの必要を見ておられたからです。神の国に受け入れられる大人も同じです。信仰は、世の常識や固定観念に縛られた大人のかたくなな心ではなくて、子供のように素直な心で受け止めることが大切です。そうすれば神さまによって祝福されて、信仰が育てられていくのです。

3.世的な考えに縛られた弟子たち

この世的な考えや認識だけでいっぱいになっている状況だと、霊的な知恵を悟ることもまた、それを素直に受け入れることもできなくなります。そうならないためにも信仰者には聖霊が与えられています。神さまがみ言葉によって、聖霊の働きを通し、世の常識とは違う神さまのお心に気づかせてくださるのです。まだまだ霊的には幼な子のように未熟だと認めて、イエスさまに頼る者を神さまはご自身の神の国に招き入れてくださるのです。

2024102427日 週報より 

2024年7月7日日曜日

霊的成長をさまたげるもの

聖書箇所 マルコによる福音書653-56

その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。                                                                 マルコによる福音書655

今日の箇所で見られる人々の不信仰な姿から、霊的な歩みを妨げるものについて見てみましょう。

1.ご利益信仰

ご利益信仰とは、自分の思いの達成のためだけに神さまを利用したいと願うことです。しかし私たちが目を向けるべきは、人を永遠の滅びに向かわせている罪からの解放です。罪の救い主であるイエスさまを信頼して仰ぐことです。自分のために利用する神さまへの向かい方ではなくて、自分を神さまに用いていただくために神さまに自分を明け渡していくことが大切です。

2.常に自分に向かう目線

人々はあまりにも自分自身に目を向けすぎていました。そうなると肉の欲は活発に活動しますが、霊は働かなくなります。私たちがまず神さまに目を向ける時に、自分がいかに神さまのお心にふさわしくない、愚かでみじめな者であるかを知らされ、ただ神さまの前にひれ伏すしかできなくなります。すると私たちの霊が働き始めるのです。

3.自己中心の思い

目線が常に自分に向かえば、自己中心的な思いに満たされます。人を無視して自分のしたい放題になるのです。肉の欲から来る思いは、気づかないうちに自己中心の思いをおこさせます。そしてご利益信仰へと向かわせます。肉の思いに対抗できるのは聖霊だけです。聖霊を意識し、聖霊の助けでお言葉から力をいただき、またお言葉に従うことで、強力な肉の思いから解放されるのです。そうすれば目線は神さまに向き、思いは神さま中心となり、霊的な成長を続けられます。

2024年7月7日 週報より

2024年4月21日日曜日

悪霊を追い出された人の働き

聖書箇所 マルコによる福音書51-20

あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。        マルコによる福音書519

1.けがれた霊につかれた人

ゲラサびとの地についたイエスさまの前にけがれた霊につかれた人がやって来ました。この人は、正常な意識を持ちながらも悪霊に動かされるままになり、それを嘆き悲しむしかない状況でした。罪にとらわれている私たちも同じです。罪の奴隷となり、したい善を行えず、したくない悪を行って神さまに喜ばれないことを重ねているのです。この人は、罪にとらわれた私たちの姿そのものを示しています。

2.ゲラサの人々

この人を狂わせた多くの悪霊を、イエスさまはお言葉一つで従わせられました。しかしそのことで豚の大群が死んだのを見たゲラサの人々は、イエスさまによって豚が失われる経済的損失を恐れました。この世は常に正義よりも安定を求めます。イエスさまに従い正しくあろうとすれば、世からの反発に遭うのです。それでも私たちはイエスさまの喜ばれる選択をする信仰者でありたいと教えられます。

3.ゲラサの人々への証し

悪霊から解放されたこの人にイエスさまは、ゲラサの人々への宣教を託しました。マルコによる福音書の653節以降には、この男性によって地域の宣教が大きく前進した様子が描かれています。イエスさまに立ち去って欲しいと願ったゲラサの人々にイエスさまのことを伝える働きは、悪霊を追い出していただいたこの人にしかできないことでした。イエスさまは私たちが遣わされている場所で、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」を知らせ伝えていくことを願われています。

2024421日 週報より