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2025年2月16日日曜日

キリストとは

聖書箇所 マルコによる福音書12章35-37節

このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか。マルコによる福音書12章37 節

1.民たちの願う救い主

 イエスさまは「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか」と律法学者たちの教えに疑問を投げかけています。律法学者たちは、救い主であるキリストがダビデ王のように力でローマ帝国から解放してくださると考えていました。しかし彼らは聖書が示すキリストの一面しか見ずに、自分たちの都合の良いようにキリストを解釈し、それを民に教えていたのです。

2.罪からの救い主

イエスさまはダビデの詩篇を引用されました。それはキリストがダビテにとって我が主であって、ダビデの子孫というだけではないということでした。キリストは私たちを罪から解放して、神さまと私たちの平和を導く霊的な王として来られたのです。イエスさまは「今待ち望むべきキリストはこの罪からの救い主なのだ」と、彼らを正しい理解へと導こうとされていました。

3.真の喜びを与える救い主

確かにキリストは王として私たちをご支配(守りと導きを)くださいます。私たちを罪から救い、魂に平安を与える王になられたのです。やがてこの世が終りを迎える時、私たちを守り導く神の国の王として来られます。私たちはこの王なるイエス・キリストを土台として、自分の人生を建て上げることが大切です。イエスさまを信じるだけで、王なるイエスさまの守りと導きをいただいて、人としての真の喜びの人生を歩むことができるのです。

2025年2月16日 週報より


2024年12月8日日曜日

エルサレム入場

聖書箇所 マルコによる福音書111-11

そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。    マルコによる福音書117

1.神さまの弟子として

村から子ろばを引いてくるように言われた弟子たちは、すべてイエスさまの言われたとおりになったことを経験しました。イエスさまが、先を見通す神さまの力を見せられたのです。ここまで弟子たちは人としてのイエスさまに多くを頼ってきました。しかし、エルサレムに向かう今、神としてのイエスさまに従う弟子となるのだと教えられたのです。

2.王としてのエルサレム入場

人々はイエスさまのために上着や木の小枝で王の道を用意しました。彼らの期待は、力によってローマを追い出し、ダビデの王国を再建する王でした。しかしこの時のイエスさまは、十字架にかかり苦難を通る王として来られていました。まもなく人々は、このお方を王であり救い主だと認めるのか、それとも捨て去るのかの選択を迫られることになります。

3.平和の君として

戦争に用いられる馬とは違い、ろばは平和の象徴です。イエスさまは、ご自分のいのちを十字架に献げることで、私たちに神さまとの平和の道を用意してくださいました。平和の君であるイエスさまを受け入れる者にこの世では得られない平安が与えられます。このイエスさまを受け入れるのか、拒むのかを全ての人が問われているのです。信じた私たちは、「全て明け渡します。あなたのお心のままになさってください」とイエスさまに自分をお委ねいたしましょう。

2024128日 週報より