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2025年4月6日日曜日

苦しまれたイエスさま

聖書箇所 マタイ1621節、イザヤ533-5節他

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。イザヤ書535

1.苦しまれたイエスさま

イエスさまは十字架で苦しまれて死なれました。ここから「苦しみ」と「十字架の死」は、一つとして理解されていることが多いように思われます。しかし聖書は、イエスさまの「苦しみ」と「十字架での死」また「復活」にそれぞれ意味があることを明らかにしています。きょうはまず「イエスさまの苦しみ」についてみましょう。

2.イザヤの預言

イザヤは、イエス・キリストが侮られて苦しまれる必要があることを預言しています。十字架にかかる前にイエスさまは、ローマのむちで肉体的な苦しみを受けます。その後ローマの兵士たちから軽蔑され、ばかにされて、精神的苦痛をも受けられます。それは罪人である私たちが受けるべき苦しみをイエスさまが代わって受けてくださったものです。

3.苦しみの意味

聖書の示す罪とは犯罪に限定されません。真の神さまを神として敬わないことや人の持つ悪い心、また自己中心の思いも罪です。全ての人はこの罪を持っているので、神さまから罪の罰としての懲らしめと苦痛を受けなければなりません。イエスさまは、私たちの罪を赦すために私たちの代わりに十字架に架かられました。このイエスさまを信じることで私たちは罪が赦されます。しかし犯した罪のあと(結果)は残ります。そこでイエスさまは、罪の懲らしめをも私たちの代わりにお受けくださいました。イエスさまが「苦しみ」を受けてくださったので、私たちには平安が与えられているのです。

202546日 週報より

2024年12月15日日曜日

クリスマスメッセージ 御手の守り

聖書箇所 ルカによる福音書1章5-25

するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。         ルカによる福音書1章18節

1.ザカリヤの背景

ローマの支配に苦しむ人々は、神さまが約束された救い主の訪れを待ち望んでいました。祭司であるザカリヤ夫妻は、律法の決まりを守り行う「神のみまえに正しい人」たちでした。しかし二人には子供はおらず、すでに年老いていました。祭司職は世襲制で、男の子供以外には引き継げません。ザカリヤの願いと祈りは、救い主の訪れによるイスラエルの平和と我が子の誕生であったでしょう。

2.ザカリヤの恐れと不信仰

彼が聖所で務めをしていると突然、御使い(天使)があらわれます。御使いは、恐れるザカリヤに男の子の誕生を告げます。しかし彼は信じられず、口をきけなくされます。彼の恐れや不信仰はどこから来たのでしょうか。それは神さまに仕えながらも心が神さまに向かず、子供の誕生を祈りながらも「もう無理」と思い込んでいたからでしょう。世的な肉の思いが彼の信仰を覆っていたのです。

3.ザカリヤの賛美

口がきけない苦しみの日々でも、彼は妻のお腹が少しずつ大きくなるのを見ます。彼はそこに神さまのあわれみと恵みを見続けました。やがて彼の口が開かれた時、恐れや苦しみによる恨み言ではなく、神を賛美する言葉が出ます。私たちもそれぞれにその人なりの恐れや苦しみがあります。しかし私たちは、それが全て益とされる神さまのご計画であり、御手の守りの中にあると信じることが大切です。そうすれば恐れ、辛さに悩む心が平安に変えられます。

2024年12月15日 週報より

 

2024年12月8日日曜日

エルサレム入場

聖書箇所 マルコによる福音書111-11

そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。    マルコによる福音書117

1.神さまの弟子として

村から子ろばを引いてくるように言われた弟子たちは、すべてイエスさまの言われたとおりになったことを経験しました。イエスさまが、先を見通す神さまの力を見せられたのです。ここまで弟子たちは人としてのイエスさまに多くを頼ってきました。しかし、エルサレムに向かう今、神としてのイエスさまに従う弟子となるのだと教えられたのです。

2.王としてのエルサレム入場

人々はイエスさまのために上着や木の小枝で王の道を用意しました。彼らの期待は、力によってローマを追い出し、ダビデの王国を再建する王でした。しかしこの時のイエスさまは、十字架にかかり苦難を通る王として来られていました。まもなく人々は、このお方を王であり救い主だと認めるのか、それとも捨て去るのかの選択を迫られることになります。

3.平和の君として

戦争に用いられる馬とは違い、ろばは平和の象徴です。イエスさまは、ご自分のいのちを十字架に献げることで、私たちに神さまとの平和の道を用意してくださいました。平和の君であるイエスさまを受け入れる者にこの世では得られない平安が与えられます。このイエスさまを受け入れるのか、拒むのかを全ての人が問われているのです。信じた私たちは、「全て明け渡します。あなたのお心のままになさってください」とイエスさまに自分をお委ねいたしましょう。

2024128日 週報より

2024年12月1日日曜日

盲人の信仰に倣う

聖書箇所 マルコによる福音書10章46-52節

彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。       マルコによる福音書10章47 節

1.盲人の告白

エリコの町で盲人のものごいが、イエスさまに叫び続けます。「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」との叫びは、彼の信仰告白でした。彼は、「救い主であるイエスさま、あなたは盲人の目をあけることもおできになります。あなたはすべてをご存知です。あなたのお心ならばあわれんでください」と叫び続けていたのです。イエスさまはこの告白に急ぐ足をとめられたのです。

2.盲人の確信

彼は、イエスさまが呼んでおられると聞いたとたんに、踊りあがって喜びました。彼はこの時もうすでに目が癒されることを確信していました。イエスさまが通られる唯一の機会を、彼は恵みの時としたのです。ものごいの境遇と戦いながら、それでも彼は救い主を心から待ち望み、神さまのあわれみが注がれることを信じ続けていました。イエスさまは、弟子としてのあるべき信仰の姿をこの盲人に見ておられました。

3.盲人の信仰

この盲人はただ神さまのあわれみにすがりました。「神さま、あなたは私のことをすべてご存知で、こんな私にも恵みを与えるあわれみ深いお方です。その恵みを私に受け取らせてください」。これがこの盲人の思いでした。イエスさまは「あなたのその信仰によってあなたは助けをいただいたのです」と言われたのでした。これまで霊の目で信じてきた彼は、この時から見える目で、イエスさまを仰ぎ従いました。私たちも「お心ならばあわれんでください」という盲人の信仰に倣って歩む者とされましょう。

2024年12月1日 週報より