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2025年3月16日日曜日

あわてないで

聖書箇所 マルコによる福音書131-8

また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。マルコによる福音書137

1.神殿に目をとめた弟子

弟子のひとりは、すばらしい神殿の外観に目が奪われています。神さまのご臨在を示す神殿も、外観だけに目を奪われるなら神さまへの信仰は妨げられます。イエスさまは、神殿の崩壊を預言されています。神殿にすがる弟子たちの思いをイエスさまを神殿とする信仰に向けさせるためでした。私たちも外観や雰囲気によらずに見えない神さまに心を向けることが大切です。

2.前兆を知りたがる弟子

四人の弟子は、神殿の崩壊についてイエスさまに尋ねます。神殿崩壊で信仰の土台も崩れるとの恐れがあったのです。「それは困ります。前もって知っていないと不安です」と自分たちの思いだけで聞いています。これではイエスさまが伝えようとした真意を受けとめることができません。いつも聖霊を意識して、お言葉からそこにある神さまのお心を求めることを教えられています。

3.前兆を語られたイエスさま

イエスさまは、終わりの時の前触れを明らかにされています。多くの偽キリストの出現や戦争、自然災害が起こると言われます。まさに現在の世界を見ているようで、私たちも不安になります。しかし、イエスさまは「あわてるな」と言われています。終わりの日は、確実にやってきます。イエスさまを信じ救われた者は何をも恐れることはありません。神の御手の守りがどこまでもあり、終りの日が私たちの恵みの時となるからです。それが神さまの約束です。

2025316日 週報より

2024年12月29日日曜日

心を見られる神

聖書箇所 マルコによる福音書1112-21

そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。

 マルコによる福音書1117

1.実のないいちじく

イエスさまがここで言わんとされているのは、神殿での人々の行為がこのいちじくの木のようだということです。人々の礼拝の様子は一見、信仰深そうに見えていました。しかし、人々の心は神さまに向いておらず、神さまの望まれる実がひとつもない姿であるというのです。そし彼らは、枯れたイチジクの木のように神さまに見捨てられてしまうというものでした。

2.心のない神殿礼拝

神殿は人々が見えない神さまの存在を感じ、信じるためのしるしでした。そして神殿は神さまに祈るための祈りの家でした。この信仰に立つのが神殿での礼拝でした。しかし、イエスさまが神殿を見回られた時、神さまに心を向けて祈る信仰は見られず、形ばかりの礼拝が献げられていたのです。今は礼拝を教会でお献げできる恵みの時代です。しかし、礼拝が形だけのものにならないようにとあらためて教えられます。

3.自分を聖霊の宮として

神さまは私たち一人一人の心を見ておられます。心のない形ばかりの礼拝では、ただ神さまを低く見ていることを示すだけです。そんな神殿の状況に終わりを告げようとされたのが、イエスさまの宮での行為でした。聖書は信じる私たち自身が、聖霊の宮であって、目に見えない神殿であると言います。私たちは、聖霊の宮としての自分を神さまのものとして歩むようにと望まれているのです。

20241229日 週報より