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2024年9月15日日曜日

神さまの恵みを味わう

聖書箇所 マルコによる福音書99-13

しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。                                                                    マルコによる福音書912

1.誰にも話さないように

イエスさまは「いま見たことをだれにも話してはならない」と言われました。イエスさまが神さまであるという事実は、今は三人の弟子たち以外には、つまずきになるということでしょう。人は霊的事実を霊の目で見ることができない時、理屈や知恵で理解しようとします。しかしそれは、勝手に事実を曲げて納得することです。私たちはそうすることで、イエスさまに従うことへの妨げとしてしまうのです。

2.霊的なひとり立ち

イエスさまが死なれることは、弟子たちが決して考えたくない、考えられないことでした。もっともっとイエスさまに頼って教えをいただきたかったのです。しかし神さまのご計画は彼らが聖霊を受けて、早く霊的なひとり立ちをすることでした。イエスさまは、「自分の思いによる計画ではなく、わたしが示すあなたの計画を自分のものとして受けとめて、それに従って歩みなさい」と言われているのです。

3.隠された神の恵み

イエスさまは、神であるキリストがどうして犯罪者のように捨てられ、殺されなければならないのかをよく考えるようにと弟子たちに示されました。そしてここにどれ程の大きな福音の恵みが隠されているのか、その恵みと祝福のすごさ、すばらしさに気づき始める者になりなさいと導いておられます。私たちは神さまから示される霊的事実の一つ一つを霊の目で見て受け取り、それらを積み重ねていきます。そうすれば、霊の奥深い所に隠されているすばらしい恵みを知って、味わうことができるようにされるのです。

2024915日 週報より

2024年8月18日日曜日

パン種の影響

聖書箇所 マタイによる福音書811-21

そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。                 マルコによる福音書815

1.しるしを求めたパリサイ人

パリサイ人たちはイエスさまに天からのしるしを求めます。それは預言者エリヤが見せた、天からの火で供え物を焼きつくすようなしるしでした。しかしイエスさまは、彼らの貧しい信仰を嘆き、彼らとのこれ以上の議論を避けられました。パリサイ人たちは、目に見えない神さまを信じる信仰者でした。それでも目に見えるしるしを求めるのは、あまりにも貧しく程度の低い信仰だったからです。

2.悟れない弟子たち

弟子たちは、先の奇跡で余ったパンを忘れてきたことに心が向いていました。そして弟子たちどうしで、忘れたのは誰のせいかと責任のなすりつけ合いを始めます。そして「わたしが言おうとしていることを悟れないとは何となさけないことか」とイエスさまをがっかりさせます。私たちも心を自分の思いに占領されることなく、全ての出来事に御手をのばされている主を覚えましょう。そうして主の導きを悟ることのできる信仰者でありたいと教えられます。

3.パリサイ人とヘロデのパン種

イエスさまは、ここでパリサイ人のパン種とヘロデのパン種につて述べられました。心の奥にある自分の思いや考えがパリサイ人のパン種です。またこの世の事柄に引っ張られる思いや心がヘロデのパン種です。イエスさまはこれらのパン種に早く気づいて、これらを治め、神さまに思いを向けていくようにと、弟子たちに注意を促されたのでした。私たちも自分の中に働こうとするパン種の怖さを知り、上から与えられる信仰のみに目を向けて歩んで行くことが大切です。

2024818日 週報より

2024年7月21日日曜日

パリサイ人の思い違い

聖書箇所 マルコによる福音書714-23

これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。      マルコによる福音書723

1.人の本質

霊なる神さまに似せて造られた人の本質は霊です。しかしアダムとエバが罪を犯して以来、人の本質である霊は罪に支配されて、人は神さまに逆らい悪い方に傾くようになりました。パリサイ人たちは、罪に支配された状態でも律法の定めを守っていれば神さまの前にきよいとされて受け入れられると考えていました。しかし彼らはその出発点に問題があることに気づいていませんでした。

2.肉の人と霊の人

イエスさまは、「けがれた食べ物が人をけがすのではない。人はもとのきよい霊が罪の支配で肉体から来る欲におおわれた肉の人となり、悪い思いで満たされるのです。この悪い思いが人をけがすのです」と言われました。霊を回復させてくださるイエスさまの十字架の犠牲、そして聖霊の助けがなければ、私たちは決してもとのきよい霊の人に戻ることはできません。霊の本質に戻ることなしに、いくら汚れた物を避けてもただ滅びに捨て置かれる存在でしかないのです。

3.けがし合う人でなく

私たちは案外、自分の中から良いものも出てくると思っていないでしょうか。イエスさまは、人から出てくるものは、人をけがすものでしかないと言われます。肉の人は、神の前にけがれた者であるだけではなく、互いにけがし合って、益々神さまから遠ざかります。信仰者にも尚、肉体から来る欲は残ります。しかし、イエスさまと聖霊が本来の霊の人を回復し、保たれるのです。霊の人にされたこの恵みを喜ぶ選択をいたしましょう。み言葉をかたく信じ、イエスさまと聖霊にたよる者は世の勝利者として神さまの栄光を受ける者となります。

2024721日 週報より

2024年7月14日日曜日

ごまかさないで

聖書箇所:マルコによる福音書71-13

こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。

                             マルコによる福音書713

1.偽善者と言われた人々

ユダヤ教の指導者たちは、弟子たちがきよめの洗いをせずに食事をしているのを律法違反だとして、指導者であるイエスさまを問い詰めます。 しかしイエスさまは彼らに「あなたがたは偽善者だ」と厳しい非難をされました。偽善者とはうわべだけの善行を行う人です。彼らが信仰に熱心であっても偽善者となる理由は何でしょうか。

2.偽善者となった理由

1)思い違い:彼らは聖書のみ言葉の理解が難しい所に具体的な決まりを定めて対応していました。そうして聖書のみ言葉より、人がつくった決まりを優先するようになりました。

2)理屈の優先:人は頭で理解し納得できるものを好みます。しかし、人間の理性や感覚は肉体の欲や思いから来ます。彼らは人の理屈で霊なる神さまの思いを曲げて誤った解釈をしていました。

3)自己満足:彼らは人が決めた決まりを100%守っていることで、完全な信仰に歩んでいると自己満足していました。しかもそれを神さまが喜ばれているかどうかを考えることも、心を神さまに向けることもしていませんでした。

3.偽善者のごまかし

彼らは信仰的に見えるように人をごまかしていました。また決まりを守ることが信仰的だと思い込むように自分たちをもごまかしていました。私たちにはそのようなごまかしはないでしょうか。もし罪を示されたら神さまに罪の赦しを得ましょう。その上で罪を犯さないように神さまの助けを求め、神さまに心を向けていくのが偽善的な信仰者にならないための歩みだと教えられています。

2024714日 週報より

2024年5月5日日曜日

信仰を引き出される神さま

聖書箇所 マルコによる福音書525-34

イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。       マルコによる福音書534

1.あわれみ深いイエスさま

女性の病は出血の止まらない婦人病で、当時は人との接触が禁止されていました。しかし彼女は決まりを破って群衆に割り込み、イエスさまの衣服に触れます。イエスさまは彼女の至らない点をよくご存じでしたが、その必死の思いと行動を深くあわれまれて、病を癒されました。私たちも自分の足りなさを覚えて、あわれみ深いイエスさまの前にいつもへりくだる必要を教えられます。

2.目をとめてくださるイエスさま

イエスさまは、この女性がイエスさまを信頼する思いを持って衣服に触れたのをご存じでした。イエスさまはいつも私たちのすべてに目をとめてくださり、必要に応じた力を注いでくださいます。私たちも自分の足りなさを自覚しつつも、この女性のようにイエスさまに触れようとする歩みが必要なのです。そうすれば、問題があってもイエスさまが必要を十分に満たす力を与えてくださるのです。

3.あなたの信仰があなたを救った

「あなたの信仰があなたを救った」とは、女性が衣服に触れるだけで癒されると信じたということではありません。彼女が自分の罪深さを認めて、自分の愚かさを告白し、神さまの前にひれ伏したことを指しています。イエスさまがこの女性の信仰を引き出されたのです。私たちも同じです。イエスさまが私たちを導き出して、神さまの前にありのままの自分を告白できるようにされたのです。私たちに起こるすべてのことは私たちが信仰に立つために、私たちの信仰が引き出されるように神さまが上から与えてくださっているものなのです。

202455日 週報より

2024年4月28日日曜日

神さまをどこまでも信じていますか

聖書箇所 マルコによる福音書521-2435-43

内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。                 マルコによる福音書539

1.決断をした会堂司ヤイロ           

会堂司とは、礼拝(ユダヤ教)を正しく執り行なう監督者です。この時ユダヤ教の指導者たちはイエスさまと敵対していました。ヤイロは立場上、イエスさまにお願いするまでには時間を要したでしょう。途中で娘の死を知ったヤイロは、イエスさまがもっと急いでくださっていたらと思ったでしょう。でも自分の決断までの時間を差しおいてそう思うのは、人の身勝手さであり愚かさなのです。示されたらすぐにイエスさまに従う大切さを教えられています。

2.信仰の制限を外されたヤイロ

確かにヤイロは、イエスさまの癒しの力を信じていました。しかし死んでしまったらさすがにイエスさまでももうダメだと思ったのです。イエスさまはそんな彼に「恐れなくても良い」と声をかけられました。そして娘を生き返らせたのです。ヤイロはこれを見て、自分で設けた信仰の制限が外され、神さまは何でもおできなるお方であることを確信することができたのでした。

3.できないことのない神さま

私たちはどうでしょうか。神さまには不可能はないと信じ切っているでしょうか。私たちは自分の思い通りにいかずに落ち込んでは、目に見える状況をただ恐れてしまいやすい弱い者です。そして知らない間に「さすがに神さまでも…」と自分で制限を設けてしまうのです。神さまは私たちを本気で愛し、私たちのもっとも良い時にもっともよくなるようにお心にかなったことは何でもしてくださるお方です。 信仰の制限を外して、この神さまに益々信頼をおいて歩みましょう。

2024428日 週報より

2024年4月21日日曜日

悪霊を追い出された人の働き

聖書箇所 マルコによる福音書51-20

あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。        マルコによる福音書519

1.けがれた霊につかれた人

ゲラサびとの地についたイエスさまの前にけがれた霊につかれた人がやって来ました。この人は、正常な意識を持ちながらも悪霊に動かされるままになり、それを嘆き悲しむしかない状況でした。罪にとらわれている私たちも同じです。罪の奴隷となり、したい善を行えず、したくない悪を行って神さまに喜ばれないことを重ねているのです。この人は、罪にとらわれた私たちの姿そのものを示しています。

2.ゲラサの人々

この人を狂わせた多くの悪霊を、イエスさまはお言葉一つで従わせられました。しかしそのことで豚の大群が死んだのを見たゲラサの人々は、イエスさまによって豚が失われる経済的損失を恐れました。この世は常に正義よりも安定を求めます。イエスさまに従い正しくあろうとすれば、世からの反発に遭うのです。それでも私たちはイエスさまの喜ばれる選択をする信仰者でありたいと教えられます。

3.ゲラサの人々への証し

悪霊から解放されたこの人にイエスさまは、ゲラサの人々への宣教を託しました。マルコによる福音書の653節以降には、この男性によって地域の宣教が大きく前進した様子が描かれています。イエスさまに立ち去って欲しいと願ったゲラサの人々にイエスさまのことを伝える働きは、悪霊を追い出していただいたこの人にしかできないことでした。イエスさまは私たちが遣わされている場所で、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」を知らせ伝えていくことを願われています。

2024421日 週報より

2024年4月14日日曜日

危機的状況への対処

聖書箇所 マルコによる福音書435-41

そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。              マルコによる福音書438

1.おびえた弟子たち

激しい突風で舟が沈みそうになり、弟子たちは皆おびえました。それは、イエスさまが眠っておられたからです。「私たちが死んでもイエスさまは平気なのか」と弟子たちは思いました。またイエスさまでもこの嵐はどうにもできないと考えました。さらに舟に乗るように言われたイエスさまを責める気持ちがありました。そしてイエスさまを信じる信仰を働かせることができなくなり、おびえたのです。

2.イエスさまへの不満

問題は状況を恐れることではなく、恐れる状況にあって神さまに不満を持ち、文句を言おうとする心でした。不満がつのれば、イエスさまが守り最後は良しとしてくださると信じる心が働かなくなります。置かれた状況がいかに厳しくても「御手の中から引き離されることは絶対にない、イエスさまが最後まで責任をもって導いてくださる」と信じて信仰を働かせることができるかが問われています。

3.イエスさまとともに

危機的状況で信仰を働かせるには、イエスさまに完全にお委ねすることです。自分の無力さを覚える中で、「無に等しい私をただイエスさまが支えてくださっている」と感じ入るのです。そして「イエスさまが私のいのちを握ってくださっている」と確信し、イエスさまに信頼して一歩踏み出します。そうすれば共にいてくださるイエスさまが、すべてを一緒に背負って、いつの間にか乗り越えさせてくださいます。「イエスさま、信じます。無に等しい私ですからともに歩ませてください。」これが委ねて歩むことであり、信仰の働かせ方なのです。

2024414日 週報より