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2024年6月2日日曜日

キリストの前に立つ

聖書箇所 マルコによる福音書614-29

ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。                                                                     マルコによる福音書616

1.救い主を受け入れられない人々

多くの人々がイエスさまを預言者だとしていました。ナザレの人々同様にメシヤ(救い主)が大工から出るはずはないとの思い込みがあったのです。また彼らは、イエスさまを預言者としておきたかったのです。預言者であれば、自分たちの信仰の在り方や立場が守られると考えていました。メシヤを受け入れるということは、全てを新しく造り変えてくださいと自分自信を差し出すことになるからです。

2.救い主を受け入れられないヘロデ

ヘロデは、バブテスマのヨハネが、正しい人だと受けとめていました。しかし妻ヘロデヤの策略でヨハネを殺したので、彼は正しい人を殺した罪意識に縛られました。しかもイエスさまがメシヤであるという真理に全く気付けませんでした。ヘロデが特別ではありません。今でも多くの人がこの世に捕われて、永遠の滅びに向かっているという真理に気づかないのです。しかしイエスさまを信じて罪赦された私たちは、真理をみつめて世に流されることのない歩みができるのです。

3.救い主を受け入れる信仰

ユダヤの多くの人々は、メシヤではなく預言者を迎える信仰にとどまっていました。またヘロデにいたっては大切なことが全く見えていませんでした。私たちはどうでしょうか。イエスさまを信じていても自分の力で大丈夫だと思っている部分はないでしょうか。そうではなくて、「主よ、罪だらけでどうしようもない私を全部受け入れてください、全て委ねますから私のすべてを造り変えてください。あなたにはその力があります」とこのように信じて求め続けていくこと、これがメシヤなるイエス・キリストの前に立つ信仰者の姿なのです。

202462日 週報より 

2024年5月26日日曜日

十二弟子の訓練

聖書箇所 マルコによる福音書66b-13

また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、                         マルコによる福音書67

1.伝道に遣わされた弟子たち

イエスさまは付近の村々の人々に教えられました。それは伝道のためであり、またその様子を弟子たちが見て学ぶ機会を与えるためでもあったようです。このあとイエスさまは、弟子たちを伝道に遣わされます。イエスさまは救いのみわざを完了されれば天に帰られます。その後、人々に救いのみわざの意味と恵みを伝えるのは、弟子たちだけでなす働きとなります。イエスさまはそのための訓練として、弟子たちを本番さながらの条件で送り出されています。

2.弟子たちが学ぶべきこと

弟子たちがこの訓練で何を学ぶべきかは、悪霊を制する権威と限定された持ち物によって知ることができます。まずこの働きが神さまの権威により、人々を悪しきもの(ここでは悪霊、のちにはサタンの支配するこの世と罪)から解放する神さまの働きだと知る必要がありました。また限定された持ち物によって、働きに必要なものは神さまがすべて満たし、養ってくださることを学ぶようにされました。それは弟子たちが神さまの前に砕かれた心で、人々に向かうためでした。

3.結果は神さまの御手に

迎える家が一軒もないなら、足の裏のちりを払い落とすように言われています。「抗議のしるしに」とは「証しのために」という意味です。「後のことは神さまにお任せします」というしるしということです。伝道の結果は神さまの御手にあり、伝える者は神さまの道具なのです。道具は人を裁きません。相手に腹を立てて恨んだり、裁いたりするのではなくて、結果を神さまにお渡しするのです。足のちりを払うのは、そのことのしるしなのだと教えられています。

2024526日 週報より

2024年5月19日日曜日

ナザレの人々の不信仰

聖書箇所 マルコによる福音書61-6a

イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。                       マルコによる福音書64

1.救い主を受け入れないナザレの人々

ナザレの人々は救い主イエスさまを受け入れられませんでした。その理由を3つあげます。理由:無学であった-イエスさまが誰もが知る先生に学んだのであれば、納得できたのかもしれません。理由:幼い頃から知っていた-幼い時から良く知り、以前と変わらない姿のイエスさまを救い主として見ることができませんでした。理由:家族を知っていた-イエスさまの家族が普通の人々であり、そんな家族の1人が救い主だとはとても思えなかったのです。

2.自らつまずいたナザレの人々

ナザレの人々に信仰がなかったわけではありません。皆、安息日の礼拝を守っていました。彼らはイエスさまの権威に満ちた教えを聞き、また他地域でなされた奇跡のみわざのことも知っていたでしょう。しかし自分たちで「あの大工のイエス」という障害物を救い主の前に置いて、つまずいてしまったのです。私たちも自らつまずいて不信仰に陥る愚かさや弱さがをあることを自覚する必要があります。

3.力あるわざを受けなかったナザレの人々

イエスさまは力あるわざをナザレの人々に一つもすることができませんでした。これはイエスさまがナザレの人々の態度にあきれて、意地悪をされたのではありません。そうしたくてもできなかったのです。彼らに求めがなかったからです。神さまは私たちに力あるわざをなそうといつも用意してくださっています。しかし私たちの側で受け取っていこうとする姿勢がなければ、神さまは何もすることができないのです。私たちは全能なる神さまを信頼し、自ら求めてその力を受け取ろうとする信仰者でありたいと思わされます。

2024年5月19日 週報より

2024年5月12日日曜日

母の愛、母の罪

聖書箇所 列王紀上316-28

しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。                         列王紀上326

1.ふたりの母の争い

2人の母親が1人の赤ちゃんを自分の子だとして争います。その裁判でソロモン王は、赤ちゃんを刀で二つにして2人の母親に与えるように命じます。すると片方の母親が、「赤ちゃんを殺さず別の女性にあげてください」と言います。それを聞いた王さまは、赤ちゃんの本当の母親がこの女性だと見定めます。王さまは、子供を守る母親の愛を良く知っていたので、本当の母親を知ることができたのです。

2.ひとりの女性にみる罪の影響

もう1人の女性は「赤ちゃんをそのまま刀で分けてください」と言いました。これには聖書が言う「罪」が影響しています。制限のきかない手に入れたいと思う強欲、自分は間違って赤ちゃんを死なせるはずがない、自分は正しいと思う自分本位、自分の子にならないなら相手の子にもしてほしくないと思うねたみ、これらは神さまが喜ばれない悪い心、「罪」です。そして聖書はこれらの「罪」がすべての人にあり、どうしても解決しなければならない問題であると言います。

3.イエスさまの愛

聖書には「罪」だけでなく「罪」から救われる道が示されています。それが神さまのひとり子イエスさまの十字架とその後の復活です。 母親が自分を犠牲にしてもわが子を助けたいと思うように、イエスさまは、ご自分を犠牲にしてすべての人が「罪」から救われることを願われました。イエスさまは私たちの「罪」を全部ご自分にきせて、その罰を十字架で受けてくださいました。イエスさまの流された尊い血によって、私たちはこのイエスさまを信じるだけで、私たちにあるすべての「罪」が赦されます。ここにイエスさまの愛があるのです。

2024512日 週報より

2024年4月21日日曜日

悪霊を追い出された人の働き

聖書箇所 マルコによる福音書51-20

あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。        マルコによる福音書519

1.けがれた霊につかれた人

ゲラサびとの地についたイエスさまの前にけがれた霊につかれた人がやって来ました。この人は、正常な意識を持ちながらも悪霊に動かされるままになり、それを嘆き悲しむしかない状況でした。罪にとらわれている私たちも同じです。罪の奴隷となり、したい善を行えず、したくない悪を行って神さまに喜ばれないことを重ねているのです。この人は、罪にとらわれた私たちの姿そのものを示しています。

2.ゲラサの人々

この人を狂わせた多くの悪霊を、イエスさまはお言葉一つで従わせられました。しかしそのことで豚の大群が死んだのを見たゲラサの人々は、イエスさまによって豚が失われる経済的損失を恐れました。この世は常に正義よりも安定を求めます。イエスさまに従い正しくあろうとすれば、世からの反発に遭うのです。それでも私たちはイエスさまの喜ばれる選択をする信仰者でありたいと教えられます。

3.ゲラサの人々への証し

悪霊から解放されたこの人にイエスさまは、ゲラサの人々への宣教を託しました。マルコによる福音書の653節以降には、この男性によって地域の宣教が大きく前進した様子が描かれています。イエスさまに立ち去って欲しいと願ったゲラサの人々にイエスさまのことを伝える働きは、悪霊を追い出していただいたこの人にしかできないことでした。イエスさまは私たちが遣わされている場所で、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」を知らせ伝えていくことを願われています。

2024421日 週報より