祝福とは
聖書箇所 マルコによる福音書4章21-34節
また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。 マルコによる福音書4章21節
1.「あかり」のたとえ
神のご支配(守りと導き)にある者は光の子です。光である神さまの愛・喜び・平安とともにある幸いを味わう者です。この幸いを隠すのではなく、証しする「あかり」となることが望まれています。それは神さまの偉大さ、愛の深さ、あわれみの大きさを示して、その素晴らしさや喜びを明らかにすることです。これが弟子としての役割です。
2.「はかり」のたとえ
この「はかり」は天秤ばかりです。一方のお皿で量った分量に応じて、もう一方の重さが決まります。私たちの神さまへの信頼度、つまり、み言葉への信頼の分量に応じて、私たちに釣り合うみ言葉の力が与えられるのです。少ないならば少なく、多ければ多く応じてくださるだけでなく、神さまはあわれみにより、見合う分以上に与えてくださるのです。しかし神さまを信頼できない者は、わずかな喜びも取り上げられてしまうことになるのです。
3.育つ種とからし種のたとえ
この二つのたとえは一つの事柄について語られています。私たちには、神さまのみ言葉が自分の中でどのように働き、成長するかはよく分かりません。しかし小さなからし種が大きな木になるように、私たちの中で驚くほどに成長したみ言葉の実となるというのです。
み言葉に信頼する者にみ言葉どおりに、さらにプラスされてその力が実現すること、これが神さまの祝福です。そして祝福によってその実は、小さなからし種が大きな木になるほどに大きくなります。そのことによって私たちは神さまを証しする「あかり」とされるのです。
2024年4月7日 週報より