信仰告白の意味
「あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」 ペテロの第一の手紙1章15-16節
キリストの体なる教会は、旧約の「真のイスラエル」と見なす.教会は「選ばれた種族(申14:2),王である祭司(出19:6),聖なる国民(出19:6,申7:6,14:21),神の所有とされた民(出19:5,申7:6,14:2)」(参照;ペテ2:9;選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民)とされる。今日の教会は、「神の民」なのです。ペテロは、①あらゆる国々からイエスキリストによって召し出されて神につける「一つの民」となった(1:2,,152:9)②一つの民=神の民が,世のあらゆる国の人々の中に,散らされ寄留しているのである(1:1,2:13)この二種の民を記しています。これは、「祭司としての働き」(2:5)で,あらゆる国の人々を神に取り次ぐ責任を果すために,「聖なるもの」とされなければならない(1:15,2:12).他の1つは,神の民の宣教の使命で,「神のすばらしいみ業を宣べ伝える」(2:9,詩96:3)為なのです。神の民ゆえに苦難の連続をしのんで、「イエスがキリスト」を辛抱強く語り続ける主の民は、御国で「よくやった」と主イエスさまからの大いなる光栄が約束されているのです。主にあるキリスト者たちの殉教は、決して無駄なことではないんです。お一人お一人の苦難を忍んで証しされた真実の姿こそ、主が喜んでくださる、尊い証言なのです。1925年に淡路島で生まれ、同志社高校、同志社大学を経て、今治教会の牧師となられてアシュラム運動を展開され、52歳で宣教地のアメリカで昇天された、榎本保郎師の「ちいろば」「ちいろば余滴」「二日分パン」「私の出会った人々」は私の推薦できる「クリスチャンの証」です。
2021年8月1日 週報より