愛なる神のさばき
「もし盗びとがあなたの所に来、強盗が夜きても、彼らは、ほしいだけ盗むではないか。」 オバデヤ書5節
オバデヤ書5節は、盗人は必要なものだけを盗み、ぶどうを収穫する者は貧しい人々のために取り残しをする。しかし、エドムのために残されるものは何もないと言います。神さまに敵対する者への裁きは、完全で徹底したものなのです。
2. 裁かれる神さまにみる愛
申命記2章4-5節には、エドムに対する神さまの愛が記されています。しかし、神さまに愛されていることが分かっていても、自分でやり返したい、やられた以上に返したいという心が起こってきます。
どうしたらよいのでしょうか。
1)神さまの時を知り、そのさばきに信頼することです。神さまは永遠なるお方で、私たちは、そのわざを終りまで見きわめることができません。そこは神さまにお任せしましょう。
2)終末における神さまの深いお心を知ることです。黙示録の中で、神さまは、敵対する人々を一気に滅ぼすことはなさらず、時間をかけて、少しずつ災いをなされています。1人でも多くの人が救いに導かれるように機会を与えておられるのです。私たちが、人を裁けば、これほどに愛に満ちた神さまの前に罪を重ねることにしかなりません。
3)マイナスの感情によって神さまの導きを失うことを覚えることです。エドムだけでなく、サウル王もダビデへのねたみというマイナスの感情にとらわれました。その晩年は、神の霊が離れ、神さまのみこころが見えず、とてもみじめな日々でした。マイナスの感情にとりつかれて、迷える羊とならないよう、マイナスの感情ごと神さまに委ねましょう。