2022年3月13日日曜日

主の懲らしめ

「我が子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒をきらってはならない」                                                                                                                        箴言311節

箴言3章の1112節には、苦難の試練的意義が教えられています。ヨブ記の5章で、エリパズがこのことに言及しています。ヨブを慰めようとやって来て、その嘆きの深さに驚き、友人のヨブが素直に耐えようとしていないのを見て、口を開いた。一切の苦悩は罪びとに対する神の報いであるのに、ヨブがそれに不服であるのは、神に対する不敬虔であるとエリパズは理解したのでしょう。友の神に対する罪を見逃すのは、真の友情ではないと考えてのことでしょう。なぜなら、ヨブ記4章の前半で、エリパズはヨブの主に対する懼れ敬う心を、「あなたが神を懼(おそれ)ていることはあなたの拠り所ではないか。あなたの道の全きことは、あなたの望みではないか。」(ヨブ4:6、参照ヨブ4:2-6)と質すのです。ヨブより年長と思われる、エリパズの来訪は、友人の態度として、私達も見習いたいもです。これこそ、真の友情ではないでしょうか。体を張ってでも、友人の為に、真理を解くため訪ねて来るということは、とても重い心を覚悟しなければならないと思います。しかし、友情の故に、勇気と負担を自身の責任とする動きは、幸いで見習いたい態度であると思います。聖書の御言葉は、時代背景も環境も現代とは大きく違うところが多いにもかかわらず、神さまがお示しくださる真理として、素直に受け止めて、実行する意味が含まれていると思います。特に旧約聖書は、はるかな時代の差異はありますが、「神さまの智慧」として味わえる、「貴重な宝物」であり、現実の生活で日々目を通し続けるべき書物であり、「神さまの言葉」そのものであると信じます。聖書に、もっと親しみましょう。

 2022313日 週報より

2022年3月6日日曜日

 わたしの霊によって

 「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」                                                                                           ゼカリヤ書46

 1.       わたしの霊によって

神殿再建工事の中で、ゼルバベルは、敵の妨害や工事にかかわる民たちの志気の低下に直面します。彼は、さらなる権力や知恵そして能力を求めていたのでしょう。しかし、この工事は、神さまのご計画であって、権力、知恵、能力といった人間的な力や業で成すものではない。聖霊が人を通して働く力によって成されると教えられています。

2.       山が平地となる

工事に関するゼルバベルの思い煩いは、大きな山のように、彼の行く手を阻んでいました。しかし、神さまはゼルバベルのためにその山を平らにすると言います。神さまはそのみこころの内をすすむ私たちに道を示してくださり、また、目の前の障害を取り除いて、その道を平らにしてくださるお方です。そして、平らになった道のその最後まで、確実に導いてくださるのです。

3.       完成する

神さまは、ゼカリヤに神殿再建工事の完成を約束されました。神さまのみ心であれば、いいえ、神さまのみ心だけが現実となります。そのお心の内を忠実に歩む私たちが、あのこともこのことも何でもできるのです。さらに聖霊を通して、イエスさまがいつも私たちを見守ってくださって、助けてくださり、最後まで一緒に歩んでくださるのです。私たちもゼカリヤのように「主よ、みこころは何ですか。」、「主よ、教えてください。」と忍耐強く静まって聞き続ける者となり、みこころの内を歩む者としていただきましょう。

202236日 週報より

2022年2月27日日曜日

 主の力が働いて

 「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ。」         ルカによる福音書5章24節

 ルカ517-26節に、イエスさまが中風の人を癒された記事があります。また、福音書の平行記事として、マタイ9:1-8,マルコ2:1-12があります。この記事は、直接的には中風の者の癒しについてですが、それを批判的に見ていたパリサイ人に対して、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」事を知らしめようとしておられ、この出来事を通して癒しの必要や医者の必要を的確に判断する憐みの心の働きを、イエスさまは、もちろん神さまの独り子としてのお力を示されたのではありますが、それと同じ程に、困難の中にいる人を見たら憐れむ思いを覚えて欲しくて、お教えなさったのではないでしょうか。主の話される内容は、直接的には、困っておられる人に向かって示されてはおりますが、たまたまその現場に居合わせたその当事者ではない人にも理解することができるような教えも併せて話して下さっているように思われます。確かに話の中心は、病の癒しについてですが、それ以上に主の観察点は、中風の者の癒しのために、屋根をはがす暴挙に出てまで、イエスさまの癒しを求めていた友情の行動に目が向けられているようです。癒しそのものよりさらに大きなウエイトとしてイエスさまの関心と興をとらえられたのではないでしょうか。イエスさまの優しいお心が、その目の付け所が示されている出来事ではないでしょうか。私達も日常的な些細なことにも目を留め、押し付けではなく、心からの親切として、周りの人々に目配りしていきたいものです。

2022227日 週報より