2024年1月28日日曜日

日曜日の安息とは

聖書箇所 マルコによる福音書223-28

また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が  安息日のためにあるのではない。                        マルコによる福音書227

1.律法に縛られたパリサイ人

弟子たちは麦の穂を取って、手でもんで殻をはがして食べました。パリサイ人たちは、それが安息日にはしてはならない収穫の仕事だと非難します。弟子たちの行為を指摘した人々は、きまりを守ることに必死でした。そして律法ときまりに縛られて奴隷のようになっていました。私たちは聖書のお言葉に対して、「~でなければならない」と縛られてはいけません。イエスさまの似姿を求めながら神さまがよろこばれる方に自ら喜んで従って行く、そんな歩み方が大切です。

2.人のための安息日

イエスさまは、「安息日は人のために設けられたものだ」と言われました。旧約聖書にその本質が記されています。安息日は神さまに愛され、守られている民のしるしでした。そして週に1度の精神的ならびに肉体的な休みの時として与えられています。その日には、霊的に養ってくださる神さまに感謝して、自分自身を差し出すようにするのです。私たちも週に一度喜んで、霊とまことをもって自分自身を礼拝でお献げする信仰者であるようにと教えられています。

3.安息日と礼拝

私たちは日曜日に礼拝をお献げします。それは日曜日が、安息日の主イエスさまの十字架と復活を宣べ伝えるのに最も相応しい日だからです。そして神さまは肉体的、精神的、霊的に安息を得るようにと招いておられます。時に事情で礼拝できないこともあるでしょう。しかし裁くのは神さまの御心ではありません。礼拝では神さまの安息を重んじて、世のこと以上に神さまに心を向けることが何よりも大切です。それが神さまの愛に応え、神さまに喜ばれることになります。

2023128日 週報より 

2024年1月21日日曜日

 福音は新しい皮袋に

聖書箇所 マルコによる福音書218-22

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。  マルコによる福音書222

1.断食とは何か

レビ記16:31に年1回の公的な断食の規定があります。しかしきまりを厳しく守るパリサイ派の人たちは、週に2度の断食をしていたようです。そしてイエスさまに対して「どうしてあなたの弟子たちは断食しないのですか」と問いただしました。ここでイエスさまは、断食の本質を示されます。それは自分の弱さを認め、神さまの前に心砕かれること。そして神さまの前にへりくだって祈り、愛を実行していくことでした。

2.真理を受け取る柔軟性

イエスさまはマルコ2:21のたとえを用いて、人々の信仰が向かう方向のずれを指摘されます。きまりを守る生き方ができているかということが、人々の信仰の判断基準になっていたからです。イエスさまはそうではなくて、「わたしが言うことを信じて、良い知らせ(福音)として受けとる柔軟性が必要である」ことを示されていました。

3.新しいぶどう酒は新しい皮袋に

マルコ2:22でもう一つのたとえが話されています。布のたとえは同じ生地(材料)でしたが、ここでのたとえは材料が異なり、入れる器だけでなく中身も違います。これはイエスさまが示される福音、イエスさまによる救いは新しいぶどう酒が発酵するように、私たちの想像をはるかに超えた素晴らしいものであることをたとえています。そしてそれを古くて固まった古い皮袋に押し込めようとするのではなく、新しい皮袋に入れるように諭されています。イエスさまよる救いは、発酵する新しいぶどう酒のように私たちの中で神の力として発酵し続け、私たちを全く新しい人として造り変える力があるからです。

2024121日 週報より

2024年1月14日日曜日

分け隔てる心が誘導する場所

聖書箇所 マルコによる福音書213-17

わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。                マルコによる福音書217

1.レビを招いたイエスさま

イエスさまは取税所のレビを弟子に招きました。このレビが、イエスさまの弟子マタイです。取税人はユダヤ人を支配するローマのために税金を集めていたので人々から嫌われて、罪人として軽蔑されていました。マタイ自身にも罪意識がありました。しかし、そこにイエスさまの招きが一筋の光となって差し込みました。今の状況から救い出してくださるのはこの方だと確信して、イエスさまに従いました。

2.こんな人たちと食事をされたイエスさま

マタイは仕事仲間や周囲の人々を招いてイエスさまとの食事会を開きます。彼らにも自分のような罪の束縛から解放される喜びを味わって欲しいと思ったからです。当時パリサイ派といって決まりを守ることを1番とする人たちがいました。彼らは取税人たちを罪人として裁き、分け隔てしていました。しかし、イエスさまは、そんな人々を喜んで受け入れられました。私たちも自分の思いや判断で人を分け隔てしていないかをいつも確認する必要があります。

3.罪人を招くイエスさま

イエスさまはパリサイ派の人たちに「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。と言われました。医者に治療してもらえるのは、病気を自覚して病院を訪れた人です。罪も同じです。イエスさまは罪を自覚している人の魂をいやされるのです。イエスさまは人を分け隔てする心も罪だと言い、その罪によって、人は天国ではなく永遠に苦しむ滅びに向かうと教えておられます。分け隔てる罪の心を決して分け隔てされないイエスさまにゆだねましょう。

2024114日 週報より