2024年2月4日日曜日

日曜礼拝の意味

聖書箇所 マルコによる福音書31-6

人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。          マルコによる福音書34

1.イエスさまの怒りの意味

イエスさまは、片手のなえた人に中央に出るように命じて癒しをされました。そして人々に「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われました。しかし人々は黙っていました。彼らは何があっても決まりを守り、どんな理由でも守れない者は裁かれるべきだと考えていました。イエスさまは、そんな人々のかたくなで、愛のない態度に怒りをあらわされました。

2.土曜日の安息日と日曜日の礼拝

決まりをたてに人を裁くことは、神さまが安息日に求めておられることではありません。安息日は、神さまが喜ばれる善に目を向ける日です。弟子たちは、イエスさまの十字架と復活を信じることで罪なき正しい人とされること、さらに安息日律法をも完全に守った者とされることを理解しました。そしてイエスさまの復活を記念し、証しを続ける日として日曜日を聖日として礼拝を守るようになりました。

3.日曜日の礼拝とは

初代教会の礼拝では、①使徒たちの教えを守る、②信徒の交わり、③共にパンをさく(主の晩餐)、④祈りの4つのことが行われていました。弟子たちは安息日の本質を学び、しかも安息だけではなく、一週間の疲れと汚れを拭い去っていただくこと、また迎える一週間を主と共に歩むために、安息の内に新たな力と恵みをいただく日としたのです。それが聖日礼拝なのだと受けとめ、守り続けました。聖日礼拝を守れるということが、いかに大きな恵みであり祝福であるかを覚えて、礼拝を喜び、人を裁かない信仰者であるように教えられています。

2024年月4日 週報より

2024年1月28日日曜日

日曜日の安息とは

聖書箇所 マルコによる福音書223-28

また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が  安息日のためにあるのではない。                        マルコによる福音書227

1.律法に縛られたパリサイ人

弟子たちは麦の穂を取って、手でもんで殻をはがして食べました。パリサイ人たちは、それが安息日にはしてはならない収穫の仕事だと非難します。弟子たちの行為を指摘した人々は、きまりを守ることに必死でした。そして律法ときまりに縛られて奴隷のようになっていました。私たちは聖書のお言葉に対して、「~でなければならない」と縛られてはいけません。イエスさまの似姿を求めながら神さまがよろこばれる方に自ら喜んで従って行く、そんな歩み方が大切です。

2.人のための安息日

イエスさまは、「安息日は人のために設けられたものだ」と言われました。旧約聖書にその本質が記されています。安息日は神さまに愛され、守られている民のしるしでした。そして週に1度の精神的ならびに肉体的な休みの時として与えられています。その日には、霊的に養ってくださる神さまに感謝して、自分自身を差し出すようにするのです。私たちも週に一度喜んで、霊とまことをもって自分自身を礼拝でお献げする信仰者であるようにと教えられています。

3.安息日と礼拝

私たちは日曜日に礼拝をお献げします。それは日曜日が、安息日の主イエスさまの十字架と復活を宣べ伝えるのに最も相応しい日だからです。そして神さまは肉体的、精神的、霊的に安息を得るようにと招いておられます。時に事情で礼拝できないこともあるでしょう。しかし裁くのは神さまの御心ではありません。礼拝では神さまの安息を重んじて、世のこと以上に神さまに心を向けることが何よりも大切です。それが神さまの愛に応え、神さまに喜ばれることになります。

2023128日 週報より 

2024年1月21日日曜日

 福音は新しい皮袋に

聖書箇所 マルコによる福音書218-22

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。  マルコによる福音書222

1.断食とは何か

レビ記16:31に年1回の公的な断食の規定があります。しかしきまりを厳しく守るパリサイ派の人たちは、週に2度の断食をしていたようです。そしてイエスさまに対して「どうしてあなたの弟子たちは断食しないのですか」と問いただしました。ここでイエスさまは、断食の本質を示されます。それは自分の弱さを認め、神さまの前に心砕かれること。そして神さまの前にへりくだって祈り、愛を実行していくことでした。

2.真理を受け取る柔軟性

イエスさまはマルコ2:21のたとえを用いて、人々の信仰が向かう方向のずれを指摘されます。きまりを守る生き方ができているかということが、人々の信仰の判断基準になっていたからです。イエスさまはそうではなくて、「わたしが言うことを信じて、良い知らせ(福音)として受けとる柔軟性が必要である」ことを示されていました。

3.新しいぶどう酒は新しい皮袋に

マルコ2:22でもう一つのたとえが話されています。布のたとえは同じ生地(材料)でしたが、ここでのたとえは材料が異なり、入れる器だけでなく中身も違います。これはイエスさまが示される福音、イエスさまによる救いは新しいぶどう酒が発酵するように、私たちの想像をはるかに超えた素晴らしいものであることをたとえています。そしてそれを古くて固まった古い皮袋に押し込めようとするのではなく、新しい皮袋に入れるように諭されています。イエスさまよる救いは、発酵する新しいぶどう酒のように私たちの中で神の力として発酵し続け、私たちを全く新しい人として造り変える力があるからです。

2024121日 週報より