2024年2月25日日曜日

ゆるされない罪とは

聖書箇所 マルコによる福音書319c-30

しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。       マルコによる福音書329

1.真理を見えなくするもの

律法学者たちは、イエスさまが汚れた霊の力で悪霊たちを追い出していると言います。彼らは、自分たちの立場を守ろうとする肉の思いからイエスさまの奇跡を悪しき霊の内部抗争だと言い張ります。 肉の思いは私たちの霊の目もふさぎます。いつも聖霊を意識し、肉の思いを神さまに明け渡して、霊の目で見る必要を教えられます。

2.律法学者たちに示された福音

ここでイエスさまは、「悪しき霊たちも内輪もめすれば、自滅してしまうことは分かっているので、彼らもそのようなことはしない」とたとえを用いて説明されています。そして「わたしは悪霊よりもはるかに強い神の力で悪霊たちを縛りあげて、人々を神さまの支配の中に移しているのです」と伝えています。私たちはイエスさまを信じることで、神の前にある罪が赦されます。そしてサタンの支配から解放されるのです。さらにイエスさまのご支配のもとに移されて、そこで愛によって守られ、育まれ、祝福されるようになります。

3.聖霊を汚す罪

イエスさまを信じる者はどんな罪も赦されます。ただし例外があります。それは聖霊を汚す罪です。そのような人は永遠に罪人としてさばかれることになります。聖霊は真理を告げて人に罪を知らせます。この聖霊をばかにして汚す者は、自ら罪を認めてイエスさまのもとに行くことができません。だから罪赦されることは永遠にないのです。私たちはイエスさまを信じた瞬間から、内に聖霊をいただきます。この聖霊を意識して歩むようにしていれば、決して聖霊を汚すことはなく、神さまの赦しの中にずっと居続けることができるのです。

2024225日 週報より

2024年2月18日日曜日

使徒と呼ばれた弟子たち

聖書箇所 マルコによる福音書313-19

そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 マルコによる福音書314-15

1.使徒と呼ばれた12

イエスさまは12人の弟子を任命し、「使徒(派遣された者の意)」と呼ばれました。彼らにはイエスさまの十字架の死と復活、またそこにある福音(良い知らせ)を人々に宣べ伝えていく重要な役割がありました。彼らは無学なただの人たちでしたが、神さまを誇ることができました。自分たちが神さまの前に無きに等しい者であると自覚できたからです。イエスさまはそんな彼らを「使徒」として選ばれたのです。

2.イエスさまがされた三つのこと

イエスさまは彼らに、①自分のそばに置くこと、②宣教に遣わすこと、③悪霊を追い出す権威を与えることの三つをなされました。彼らの信仰は、イエスさまに倣うことで成長しました。そして福音を宣べ伝えるための訓練として、悪霊追放の権威とともに宣教に遣わされました。彼らはそこで神さまを信頼し、神さまに頼ることを学びました。

3.イエスさまのそばに置かれた弟子たち

使徒たちの日々は、信仰の中に生活のすべてがある状況でした。私たちがここから学ぶのは、使徒と同じ生活をすることではありません。私たちの目の前に起こること全てに神さまの御手が働かれていることを受け入れることなのです。私たちの信仰の入り口は、自分の思いどおりになることを願うものであったかもしれません。しかし自分の思い通りではなくても、それが神さまのご計画であり、私たちの最善となることを教えられています。神さまの御心を求め、神さまが喜ばれる選択をしようと願う信仰者であるように、そのためにも神さまを信頼し、神さまに頼るように神さまは私たちに望まれています。

2024218日 週報より

2024年2月11日日曜日

神さまの時を知る

聖書箇所 マルコによる福音書3章7-12

それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。                                                           マルコによる福音書310

1.イエスさまにさわろうとした群衆

人々はいやしの力をいただこうと、先を競ってイエスさまに触ろうとしていました。ここには人々の自分本位の思いと傲慢さが描かれています。マルコは5章で、イエスさまのみ衣にさわって病が癒された女性のことを紹介しています。彼女はイエスさまの御力を信じて恐る恐る触れました。そこには彼女の信仰があり、傲慢さは見られません。この箇所からも「私の思うようにしてほしい」という自分本位の思いは信仰ではないことが示されています。

2.押し寄せた群衆

イエスさまは小舟を用意させました。我先にと群衆がイエスさまに触わろうとして、ドミノ倒しになる事故を避けるためでした。群衆心理によって群衆行動が起こります。それには人間の尊厳を失わせる怖さがあります。私たちは信仰者として、また神さまに愛されている器として、人の尊厳を重んじる生き方をしたいと思わされます。

3.神さまの時とお心を知る

人の尊厳を重んじるにはどのようにしたらよいでしょうか。神さまのお心と神さまの時を知るイエスさまは、いつも先の先までの状況を読まれて、落ち着いて行動されていました。私たちはイエスさまのように神さまのお心と神さまの時をすべて知ることはできません。世の噂に惑わされ、群衆心理にも巻き込まれやすい弱さがあります。その上、自分本位な主張も出てきます。だからこそ真理と時を知り、責任を持って導かれる神さまに全面的に信頼を寄せていくのです。それが信仰者としてまた人の尊厳を重んじる人としての立ち位置です。

2024211日 週報より