2021年7月18日日曜日

 ザアカイよ、急いで降りてきなさい

 

 「イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」         ルカ福音書195

                  

ルカによる福音書19章に、取税人であるザアカイとイエスさまの出会いが記されています。5節のイエスさまのお言葉を見ると、ザアカイにお会いするためにこのエリコの町に来られたのではないでしょうか。また、背の低いザアカイはそんなイエスさまの心は何にも知らずに、「どんな人か一目見たいと」無花果桑の木の枝に登って、イエスさまが近づいて来られるのをお待ちしていたのです。ザアカイを発見したイエスさまは、「ザアカイよ!その木から急いで降りてきなさい」「今日、あなたの家に泊ることにしているから」と、お声をかけてくださったのです。どんな人か一度見てみたいと思っていた願いがかなえられただけではなく、我が家にお迎えできることになった賓客であるイエスさまをお迎えして、主に誓いました、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。(ルカ19:8)と。人々は、悪徳取税人で大金持ちのザアカイの変貌をどのように受けとめられたのでしょうか。イエスがザアカイの家に入るのを見て、「彼は罪人の家に入り、客となった」とつぶやいた人々の思いは、イエスさまは多くの人に幸いな人と歓迎されているけれど、あんな悪人の家に喜んで客人となるなんてと、不満な気持ちを持っていたのではないでしょうか。しかし、イエスさまは、その一人一人の霊的な性質を良きものにお変えになるたに最善をもって私達に向かってきて下さるのです。そして、「イエスをキリスト」と受け入れた魂を、「アブラハムの子」として受け入れてくださるのです。

私達とイエスさまの出会いにどんなご計画があったのでしょう。

 

2021718日 週報より

2021年7月11日日曜日

 祈ることを教えてください

 

 「だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」                         マタイによる福音書68節                  

 

私たちは、異邦人たちのように「くどくどと祈る」必要がないので、「だからこう祈りなさい(マタイ6:9)」と言われています。それは、私たちが祈りの相手である父なる神さまのことをよく知っており、また、神さまは、私たちの必要をよく知っておられるからです。

よく知る子供さんが、何か欲しいと願うとき、私たちは、その必要について、よくわかります。そうして、与え方や与える時期を判断するでしょう。私たちの父なる神さまも同様です。私たちの必要を良く知ってくださっている父なる神さまだから、私たちは、くどくどと祈る必要がないのです。祈りを通して、私たちは願うだけでなく、父なる神さまのみこころを知ることができます。父なる神さまは、完全に正しいお方であり、全知なるお方です。私たちを私たち以上に知るお方。そして、これから起こることをもご存知です。祈りによって、私たちは、ますます神さま、そのみこころと、また自分自身を知ることになります。

まだ、イエスさまを信じておられない方には、信じることを心からお勧めします。神さまと祈りで交わり、本当の自分をも知ることができるようになるからです。自分にも神さまの前に罪があること、イエスさまがその罪の身代わりに十字架にかかり死んで葬られ、3日目によみがえられたことを信じて受け入れるだけです。

私たちは、くどくどと祈る必要はないとイエスさまは、教えてくださいました。では、イエスさまは、なぜ、私たちに求め続け、捜し続け、たたき続けと言われているのでしょう。それは、いつも神さまを見て、神さまのみこころをいつも確認し、覚えている者に対して、 神さまは、求めるものを何でも与えてくださるからということでしょう。弟子たちは、祈る方法ではなくて、祈ることを教えてくださいとイエスさまに尋ねたのですから。祈りましょう。

2021711日 週報より

2021年7月4日日曜日

御子イエスを信じる者

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」          ヨハネ316 

ヨハネ3章で、「ニコデモの救い」が取り扱われています。これはちょうど私たちの救いのステップを見せて下さっているような、素晴らしい記述です。今朝の聖書箇所では、ニコデモの救いの記事を通して、主イエスさまが意図されておられた、「人の救い」についての主イエスさまのお思いと願いが語られています。この箇所から、私たちは、救われるためには、「イエスをキリストであることを信じる者は裁かれない」との「主のお赦し」が続く間はこの事が強調され、それは、ニコデモにだけではなく、「イエスをキリスト(救い主)」と信じ受け入れるすべての人々が、主がお赦し下さる間、世界中のどこに住んでいても、いかなる環境の中でも、可能となる真理なのです。

「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである(Ⅰヨハネ51)。」とあり、さらに「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない(Ⅰヨハネ53)。」と記されています。

私たちイエス・キリストにある者=クリスチャンは、「」イエスがキリスト」と告白して、キリスト者と認められて、キリストに教えられた「戒め」を守り続ける生活を通して、救い主がお約束して下さる「救われた生活」を守り続けることで、天国への道が保証されているのです。

ただにこの保証をいただくためだけではなく、その天国への道が幸いで正しい道であることを理解し、感謝し、私たち11人の人生において、しっかりと、確実に受け留めてまいりましょう。

2021年7月4日 週報より