2021年8月15日日曜日

 世に勝つ信仰

「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」                                                                                                ヨハネの第一の手紙5章5節

 「それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:15

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」(ヨハネ3:16-18

ヨハネによる福音書3章には、聖書を開いたことがある人なら誰でも見聞きしていると思われる有名な聖句があります。神さまの愛は全ての人に向けられており、しかも、「イエスの名を信じ受け入れる者」は誰でも、無条件に「父なる神さまの子供」として受け入れて下さるとの宣言がなされているのです。

「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。」(Ⅰヨハネ4:15-17

 2021815日 週報より

2021年8月8日日曜日

 主の祈りを祈る

 

「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救い ください。」 

                     マタイによる福音書613 

1.「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」

多くの解釈がありますが、毎日私たちが食べる食物のための祈りと理解して良いでしょう。こう祈らないならば、私たちは、日ごとの糧について、神さまの助けは要らない、自分ですべて解決できるとしていることになります。このいのちを主の御手に委ねます。どうか今日も主によって生かされますようにという祈りです。

2.「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」

負債は罪とみて良いでしょう。この祈りは、私たちの罪をもおゆるしください。と神さまに今祈る私たちは、私たちに罪のある者を赦しました。赦す準備があります。という祈りです。イエスさまからいただいた愛を実践できるかどうかが真に試されている祈りなのです。

3.「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」

この祈りは、私たちをより良い信仰者とするために、神さまが与えてくださる試み(試練、訓練)に、私たちがサタンの誘惑によって、つまずき、悪に陥ることがないように、信仰を働かせ、与えられた試みを経て成長できるようにしてくださいという祈りです。

聖書によっては、この後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」という祈りが記されています。この部分は、後から書き加えられた可能性が高いとのことです。しかし、主の祈りを通じての神さまの証し、信仰告白として、これは、決して主の祈りの妨げにはなりません。私たちは、11つの祈りの意味をよく理解して、神さまに心から、主の祈りをお献げしましょう。 

202188日 週報より

2021年8月1日日曜日

信仰告白の意味

 

「あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」  ペテロの第一の手紙1章15-16

 

キリストの体なる教会は、旧約の「真のイスラエル」と見なす.教会は「選ばれた種族(申142),王である祭司(出196),聖なる国民(出196,申761421),神の所有とされた民(出195,申76142)」(参照;ペテ29;選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民)とされる。今日の教会は、「神の民」なのです。ペテロは、あらゆる国々からイエスキリストによって召し出されて神につける「一つの民」となった(1:2,,152:9一つの民=神の民が,世のあらゆる国の人々の中に,散らされ寄留しているのである(1:12:13)この二種の民を記しています。これは、「祭司としての働き」(25)で,あらゆる国の人々を神に取り次ぐ責任を果すために,「聖なるもの」とされなければならない(115212).他の1つは,神の民の宣教の使命で,「神のすばらしいみ業を宣べ伝える」(29,詩963)為なのです。神の民ゆえに苦難の連続をしのんで、「イエスがキリスト」を辛抱強く語り続ける主の民は、御国で「よくやった」と主イエスさまからの大いなる光栄が約束されているのです。主にあるキリスト者たちの殉教は、決して無駄なことではないんです。お一人お一人の苦難を忍んで証しされた真実の姿こそ、主が喜んでくださる、尊い証言なのです。1925年に淡路島で生まれ、同志社高校、同志社大学を経て、今治教会の牧師となられてアシュラム運動を展開され、52歳で宣教地のアメリカで昇天された、榎本保郎師の「ちいろば」「ちいろば余滴」「二日分パン」「私の出会った人々」は私の推薦できる「クリスチャンの証」です。

2021年8月1日 週報より