2021年11月7日日曜日

 万事を益となさる神さま 

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」             ローマ828節  

『聖霊』もまた同じように私達の弱さを助けに来られます。というのは、わたしたちがなんと祈ったら良いか解らないのに、御霊ご自身が来て、口に言い表しえないほどに切なる願いを持って私達の祈願に応じて下さるのです。人であり神であるお方は愛する者たちの心を探られる方で、聖霊の意図されていることを知っていて下さるのです。なぜなら御霊は、神の御心に従って、聖徒たちのために神のみ前にとりなして嘆願して下さるからです。(参照:詩篇139:12)神を愛する者、すなわち神のご計画に従って召されている者にとっては、切のことが共に働いて益となることを確信しているのです。なぜなら神は、前もって愛しておられる者が、内的に神の形に預かることを初めから予定しておられるからなのです 。神はまた予定された者を、お召しになり召したものを義と認められたのです。彼らを天における貴い身分と実態にまで高められたのです。(25-30節の詳訳聖書)もし神が私達の側に立たれるなら誰が私達の敵になりえるのでしょうか。参照詩篇118:6[主が私に味方されるので、恐れることはない。人は私に何をなしえようか]私達一人一人を一人一人として、愛の眼を注視して見ていて下さる主なるイエスキリストは、私達がどのような状態に立ち至ったとしても、主の最善をもって導き整えて下さるお方なのです。ですから私達もまた、このお方に、全身全霊をもって向かわせていただきたいのです。

 2021117日週報より

2021年10月31日日曜日

 御子を持つ者 

「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。」                                                                                                                  Iヨハネ512節     

「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』とあります」(ルカ10:27)。これは、ある律法学者がイエスさまに、「先生、何をしたら永遠の命が受けられましょうか」。と尋ねた時にお応えになった御言葉です。また、ヨハネは第一の手紙の中で、「御子を持つ者は命を持つ」と言明しておられます。これは、「イエスをキリスト」と告白することで、イエスさまを主として受け入れ、主にあって、自分自身が生きていると言う証として告白していることなのです。私達は、「キリストにあって生きている」という証しに、「私にとって生きるはキリスト」と証しさせて頂きたいのです。今生活しているのは、私の中でイエスさまが私を生かしてくださっているからなのだと実感していきたいのです。「私は生きてる」のではなく、「私は主にあって生かされている」と、どんな時でも告白していきたいのです。聖書を通して私達は、主にあって生かされ、主とともに日々の生活が営なんでいることを感謝し喜び証しする者であるからこそ、キリスト者と呼ばれるに相応しい者と言えるのではないでしょうか。私達の主にある生活という証を通して、人々がイエスは主であることを理解し、私もそのような人になりたいと願いを起こされるのではないでしょうか。私達、すでにイエスがキリストであることを信じ受け入れ正しい理解を持つ者の模範こそ、一番身近なサンプルなのではないでしょうか。私達の口で語り、私達の行動でお示しすることこそ、一番有効な「イエスがキリスト」の証であるということができるのではないでしょうか。

 20211031日 週報より

2021年10月24日日曜日

 ふたりは一緒に 

「アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。」                               創世記 228節              

 「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか(アモス3:3)。」約束をした者同士は一緒に歩くのだと言っています。それが神さまのみこころです。

では、一緒に歩くとはどういうことでしょうか。信仰の父アブラハムの最大の試練は、ひとり子イサクを神さまの示される山で燔祭(全焼のいけにえ)として献げるというものでした。それが記されている創世記22章では、「ふたりは一緒に行った。」という表現が繰り返されています。この時神さまは、アブラハムとイサクの2人が、神さまのみ心を共有できるかをテストされています。イサクは、父の言葉と態度から、神さまが選ばれたいけにえが、自分であることを知り、縛られるままに、殺されそうになってもいっさい抵抗しませんでした。いのちをかけて、父アブラハムと信仰する神さまに、従順に従いました。2人は神さまのみ心を同じように知り、神さまに完全に委ねて一緒に歩いたのです。

イエスさまを主として受け入れた、私たち11人も一緒に歩む関係を望まれています。みことばから、神さまのみ心を知り、どんな理不尽な、予想外で大変な試練があっても、神さまを信頼して、 神さまに委ねて、イエスさまと共に歩むということです。そうすれば、私たちは、イエスさまとともに神さまのご計画を見ながら歩むことができるでしょう。そして、「何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく(ペテロ4:12)、」心平安に歩むことができます。イエスさまは、インマヌエル(神われらと共にいます)の主です。

 20211024日 週報より