2022年4月10日日曜日

 真理を行う者は

しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。                                  ヨハネによる福音書321

 「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(ヨハネ3:17) 続けて、「彼を信じる者は裁かれない。信じない者は、すでに裁かれている。神の独り子の名を信じないからである」(同3:18)ここに聖書が定義している大きな提題ともいえる質問があるのです。「あなたは、聖書が教える唯一の神様の存在を信じますか?そう信じて、すべての知識の根本に据えることができますか?」この質問は、人生のどの世代の人にも最初にお尋ねしたい問題であると思います。ちなみに、牧師自身は、この質問を青年期ではなく、少年期の後半の世代に頂きました。多くの年配者によると、いろいろな経験をしてからこの問題に突き当たると、とても迷うものだとも聞いたことがあります。それほど人生の大切な問題だと思います。そして、十分自身の歩みの中で決定していく「人生論」を作り上げていく重要な課題になるのではないでしょうか。聖書でイエスさまは、真理を行っている者は「光」に来る。そして、その「行い」が神によって導かれたという事が理解できるようになるというのです。聖書は続けて、「信じる者は裁かれない。信じない者は裁かれる。」というのです。また、さばきの基準が、その人の悪にあるというのです。その悪とは、光を信じない悪を選択するからだというのです。光の源は「真の神」様のご存在なのです。神さまに示され、その信実が明白にされた者は、必ず、光に来るのだと言っておられるのです。「イエスをキリスト=(救い主、購い主)」と認める、信じることのできた者は、「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3:16)の御言葉を信じる者こそ、この言葉の正しい理解者なのです。

2022410日 週報より

2022年4月3日日曜日

 野生のオリーブ

 「彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。」   ゼカリヤ書99節     

 今日はゼカリヤ書9章です。

1.救い主は来られた

ゼカリヤ書99節には、ロバに乗って来られる王なる救い主のことが記されています。救い主イエスさまは、その通りにロバに乗ってエルサレムに入場されました。聖書は歴史の真実を語り、また、唯一の神さまの言葉です。故にその預言は必ず現実のものとなります。

2.救い主はふたたび来られる

ゼカリヤ書910節は、イスラエルが神の国となり、イエスさまがその王となられることの預言です。この預言も必ず実現します。その時、罪がある者は、神の国に入ることができません。後悔してももう遅いのです。自分本位・自己中心の罪は誰にもあります。イエスさまが私の罪の身代わりに十字架で死なれ、3日目によみがえられたことを信じるすべての者に神さまは、罪の赦しと神の国への約束をくださいます。

3.神の民の回復

ゼカリヤ書912節は、神の民の回復の預言です。彼らは、これから多くの苦しみを経て、神の国を建て上げます。先にイエスさまを信じ救われた私たちは、その苦しみを神さまの守りの中で過ごし、神の国に入ります。私たちは野生種のオリーブで、実のならない存在でした。しかし、実のなる良い木に接ぎ木され神の民となりました。私たちは神の民である彼らが信奉するアブラハムに倣い、自分の手にあるものを11つ手放して、神さまに頼って歩む者とされましょう。

202243日週報より

2022年3月20日日曜日

 断食をする時には

 「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。」                                                                                                           マタイによる福音書616

 今日はゼカリヤ書7章です。

1.       断食の思い違い

神殿の再建工事が順調に進む中、失われた神殿のための断食の継続の必要を神さまに尋ねます。そこで神さまは、あなたがたの断食は、ただ、あなたがた自身のため、あなたがたの目的を達成するための手段となっていないかと問われます。

2.       断食とは

断食は、旧約の「贖罪の日」に身を聖く保つ方法として、民たちで決めて行うようになったものです。神さまに心を向けて祈りに集中するための断食には意味がありました。しかし、それが形ばかりになってしまっていました。イエスさまも、律法学者やパリサイ人たちにそのことを指摘しています(マタイ6:16)。イエスさまは、「人を愛すること」の象徴的な行為としての「断食」の大切さを示しておられます。

3.       断食と私たち

断食は強制されるものではありませんが、使徒行伝の中にもしばしば登場します。それは断食によって、神さまに祈りがよく聞かれるからでしょうか。しかし、ダビデは病気になった子供のために断食して祈りますが、その願い通りにはなりませんでした。断食は体の弱さを覚えて、人の痛みを自分の痛みとして、神さまにも人にも誠実に向き合っていくために用いられるものなのです。目に見える断食が大切なのではなく、神さまに心を向けて、神さまのおことばに聞いて従う、霊的な断食が何よりも大切であるということを教えられています。

2022320日 週報より