2024年2月18日日曜日

使徒と呼ばれた弟子たち

聖書箇所 マルコによる福音書313-19

そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 マルコによる福音書314-15

1.使徒と呼ばれた12

イエスさまは12人の弟子を任命し、「使徒(派遣された者の意)」と呼ばれました。彼らにはイエスさまの十字架の死と復活、またそこにある福音(良い知らせ)を人々に宣べ伝えていく重要な役割がありました。彼らは無学なただの人たちでしたが、神さまを誇ることができました。自分たちが神さまの前に無きに等しい者であると自覚できたからです。イエスさまはそんな彼らを「使徒」として選ばれたのです。

2.イエスさまがされた三つのこと

イエスさまは彼らに、①自分のそばに置くこと、②宣教に遣わすこと、③悪霊を追い出す権威を与えることの三つをなされました。彼らの信仰は、イエスさまに倣うことで成長しました。そして福音を宣べ伝えるための訓練として、悪霊追放の権威とともに宣教に遣わされました。彼らはそこで神さまを信頼し、神さまに頼ることを学びました。

3.イエスさまのそばに置かれた弟子たち

使徒たちの日々は、信仰の中に生活のすべてがある状況でした。私たちがここから学ぶのは、使徒と同じ生活をすることではありません。私たちの目の前に起こること全てに神さまの御手が働かれていることを受け入れることなのです。私たちの信仰の入り口は、自分の思いどおりになることを願うものであったかもしれません。しかし自分の思い通りではなくても、それが神さまのご計画であり、私たちの最善となることを教えられています。神さまの御心を求め、神さまが喜ばれる選択をしようと願う信仰者であるように、そのためにも神さまを信頼し、神さまに頼るように神さまは私たちに望まれています。

2024218日 週報より

2024年2月11日日曜日

神さまの時を知る

聖書箇所 マルコによる福音書3章7-12

それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。                                                           マルコによる福音書310

1.イエスさまにさわろうとした群衆

人々はいやしの力をいただこうと、先を競ってイエスさまに触ろうとしていました。ここには人々の自分本位の思いと傲慢さが描かれています。マルコは5章で、イエスさまのみ衣にさわって病が癒された女性のことを紹介しています。彼女はイエスさまの御力を信じて恐る恐る触れました。そこには彼女の信仰があり、傲慢さは見られません。この箇所からも「私の思うようにしてほしい」という自分本位の思いは信仰ではないことが示されています。

2.押し寄せた群衆

イエスさまは小舟を用意させました。我先にと群衆がイエスさまに触わろうとして、ドミノ倒しになる事故を避けるためでした。群衆心理によって群衆行動が起こります。それには人間の尊厳を失わせる怖さがあります。私たちは信仰者として、また神さまに愛されている器として、人の尊厳を重んじる生き方をしたいと思わされます。

3.神さまの時とお心を知る

人の尊厳を重んじるにはどのようにしたらよいでしょうか。神さまのお心と神さまの時を知るイエスさまは、いつも先の先までの状況を読まれて、落ち着いて行動されていました。私たちはイエスさまのように神さまのお心と神さまの時をすべて知ることはできません。世の噂に惑わされ、群衆心理にも巻き込まれやすい弱さがあります。その上、自分本位な主張も出てきます。だからこそ真理と時を知り、責任を持って導かれる神さまに全面的に信頼を寄せていくのです。それが信仰者としてまた人の尊厳を重んじる人としての立ち位置です。

2024211日 週報より 

2024年2月4日日曜日

日曜礼拝の意味

聖書箇所 マルコによる福音書31-6

人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。          マルコによる福音書34

1.イエスさまの怒りの意味

イエスさまは、片手のなえた人に中央に出るように命じて癒しをされました。そして人々に「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われました。しかし人々は黙っていました。彼らは何があっても決まりを守り、どんな理由でも守れない者は裁かれるべきだと考えていました。イエスさまは、そんな人々のかたくなで、愛のない態度に怒りをあらわされました。

2.土曜日の安息日と日曜日の礼拝

決まりをたてに人を裁くことは、神さまが安息日に求めておられることではありません。安息日は、神さまが喜ばれる善に目を向ける日です。弟子たちは、イエスさまの十字架と復活を信じることで罪なき正しい人とされること、さらに安息日律法をも完全に守った者とされることを理解しました。そしてイエスさまの復活を記念し、証しを続ける日として日曜日を聖日として礼拝を守るようになりました。

3.日曜日の礼拝とは

初代教会の礼拝では、①使徒たちの教えを守る、②信徒の交わり、③共にパンをさく(主の晩餐)、④祈りの4つのことが行われていました。弟子たちは安息日の本質を学び、しかも安息だけではなく、一週間の疲れと汚れを拭い去っていただくこと、また迎える一週間を主と共に歩むために、安息の内に新たな力と恵みをいただく日としたのです。それが聖日礼拝なのだと受けとめ、守り続けました。聖日礼拝を守れるということが、いかに大きな恵みであり祝福であるかを覚えて、礼拝を喜び、人を裁かない信仰者であるように教えられています。

2024年月4日 週報より