2021年6月6日日曜日

 生ける石

 「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」                           Iペテロ2章5節  

イエスさまは、「すみのかしら石」となられたお方です。このことは、詩篇で予言され(詩篇118:22)、事実となったのです。十字架の贖いは、出来事としては、イエスさまへの刑罰でありましたが、真の御働きは「イエスをキリスト」と告白した魂の「贖いの業」なのです。ですから、「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」(Iペテロ2:11)とこの世での生活について、大切な教えをくださったのです。では、「魂に戦いを挑む肉の欲」とはどんなものでしょうか。人間的な自己愛、欲望、世俗的な願望などが相当することだと思います。端的に言うなら、聖書66巻だけを中心にして、学び実践する生活をし続けるということではないでしょうか。所謂、世的な事に振り回されず、イエス様中心の生活をし続けるということができるかもしれません。善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。」(2:15-19)毎聖日の礼拝を誠実に守ること、兄姉の交わりを重んじること、什一献金を通して教会を支えること、積極的に兄姉のために祈り続けること等を忠実に実践いたしましょう。

2021年6月6日 週報より

2021年5月30日日曜日

キリストのために 

「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」                        ピリピ1章29節 

私達クリスチャンの国籍は天にあります。私達は、救い主イエスキリストさまに出会い、イエスさまを私のキリスト(=救い主)であると告白し、その時から、神さまの子どもとして認められ、神さまの家族の一員とされたのです。ですから、この地上が私達の住処ではないのです。私達は天国の住人と認められているのです。ですから、この地上に宝を積み上げることを働きとはしないのです。天の御国にその宝を積む者なのです。地上の生活は、天の御国へ行くまでの間に、その生涯を通して、父なる神さまの素晴らしい御名を、そのお働きをできるだけ多くの、まだ御国へ入る希望を確認しておられない人々にお証しする時なのです。その生活の中で、私達はキリストのゆえに、苦しむことをも頂くのです。「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。」(ピリピ1:27-28)と、パウロは励まして下さっているのです。何をするのにも、その努力の過程において、苦しくもがきあえぐことがあるものですが、「主の道」については、自我を固執しないで、父なる神さまのお任せして、お従い続けるなら、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(へブル12:11)このお言葉に、弟子たちが経験して私達に伝えようとしている「主の訓練」の大切な意味が、経験者の言葉として記録されています。 

2021年5月30日 週報より

2021年5月23日日曜日

生ける水をください

 「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。」                                                          ヨハネ4章14節

 1.「生ける水」とは、「永遠の命」とは何でしょう。「生ける水」とは、御霊(聖霊)のことです(ヨハネ7:38-39)。その御霊によって得られるものは、愛、喜び、平和等です(ガラテヤ5:22-23)。その愛、喜び、平和が、泉となって、その人からあふれ出るということであれば、こんな感謝なことはないでしょう。そしてこれが、永遠の命に至ると聖書は言います。「永遠の命」とは、「唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります(ヨハネ17:3)。」ここでの「知る」とは、単なる知識的に知ることではなく、愛することです(Ⅰヨハネ4:7)。ですから、「永遠の命」とは、まことの神さまと神さまの一人子イエスさまの愛の交わりの中に入れられることを意味します。

2.「永遠の命」に至る水がわきあがるために。この女性は、神さまに背をむけて、歩んでいました。聖書はそれを罪と言います。私たち11人にもこの罪があります。そして、イエスさまは、私たちを罪から救ってくださるために十字架にかかられたのです。イエスさまは、私たちの罪を全部背負って下さり、自ら、十字架にかかり、死んで葬られました。しかし、3日目によみがえられました。これを信じるだけで、だれでも、「永遠の命」をいただくことができます。そして、愛や喜びや平和が、いつも泉となって湧き上がるので、この世の環境、周囲の状況に一喜一憂し過ぎることなく、歩んでいくことができます。

 2021年5月23日 週報より