2021年10月17日日曜日

 盲目の人の癒し 

「イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。」                                                マタイ2034

 盲人の人が癒された記事は、マタイ2029~34節だけではなく,マルコ1046~52節とルカ1835~43節でも取り上げています。そして、マタイではその盲人たちが「二人」であると記され、マルコでは「バルテマイ」であると記しており、ルカによる福音書では、「ある盲人」とあります。おそらく、この3つの記事は、バルテマイについての記事ではないかと推測します。いずれも、盲目の目が開けて、見えるようにと願っているのです。この目は実際の眼球の視力を癒して頂きたいと願っているのですが、私達には、「心の目」もまた開かれるように願っているようにも思われます。心の目とは、心眼とか、悟る心ともいうべき信仰的な悟りを意味する言葉に通じる意味ではないでしょうか。バルテマイにとって目が癒されるという事は、生きていくうえで決定的なハンデキャップが取り除けることに通じる素晴らしい出来事なのです。彼は恐らく目の不自由のゆえに、いわゆる正業につけず、人通りの多い宮の前で物乞いをするしか、生活の糧を得られなかったのでしょう。通りがかったイエスさまが「どうして欲しいのか」と言われた時、即、「この目が見えるようにしてください。」と叫ぶように申し上げた事でしょう。私達も同様に、自分一人ではどうにもならない問題を、どうしても解決しなければ、もう前には一歩も進められないような煮詰まってしまった状態の時には、「神さま。助けてください。力を与えてください。」と、叫ばずにはいられないとき、主は「どうしてほしいのですか」と応答下さるのです。 

20211017日 週報より

2021年10月10日日曜日

 つぐなってくださる神 

「わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。」                ヨエル書225節       

 ヨエル書218節~27節から2つのことを見ていきましょう。

1.  ねたむほどに愛してくださっている神さま。

神さまのねたみは、本来一対一の親密であるはずの関係が損なわれることによるものです。神さまは、神の民イスラエルに惜しみなくご自分の愛を注ぎたいと願っておられます。私たちも今、神の御子イエスさまから、ねたむほどに愛されています。イエスさまは、私たちの罪を聖めるために、十字架でいのちを捧げてくださいました。それだけではなくて、私たちのことを神さまの前にいつもとりなしてくださっています。日々、罪に汚れる私たちの足を、イエスさま自ら洗い聖めてくださっているのです。そこまでも、どこまでも私たち11人にねたむほどの愛を注いでくださっています。

2.  いなごが食った年を償ってくださる神さま

ここに登場する「いなご」は、神さまがイスラエルをさばくために用いる異邦の民(バビロン他)の大軍勢です。そして、悔い改めた民に対する神さまの祝福は、「大軍が食い尽くした年を、あなたがたに償う」というものです。しかしそれは、悔い改めて、神さまのもとにとどまる限りということです。私たちが神さまの導きに従おうとするときに、その選択が目に見えて、損に思えるということがよくあります。しかし、人の目には明らかな損であったとしても、必ず神さまが償ってくださいます。くやしくて、情けなくて涙しても、神さまは私たちの目から完全に涙をぬぐいとってくださるのです。そんな神さまを信頼し、神さまの喜ばれる選択をして信仰に歩みましょう。 

20211010日 週報より

2021年9月26日日曜日

 神を知ることの喜び 

「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」                                                                                                           ホセア書66節           

 1  神さまを知ることを軽んじたイスラエル

ホセア書61節では、「主なる神さまに帰る(立ち返る)」ことが、また、3節には、「主なる神さまを知ることを切に追い求める」ことが語られています。しかし、2節は、早急な神さまからのいやしを求める安易な内容となっています。全体としての呼びかけは、正しいものでしたけれども、その中身は、あまりにも安易で軽々しいものでした。

2  神さまを知るとはどういうことでしょうか

ホセア6:6で、神さまは犠牲以上に、主を知ることを喜ぶと言われています。神さまへの犠牲で失敗をしたサウル王に対し、サムエルは、こう言っています。サムエル記上15:22「サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。」神さまの御声を聞くことがなければ、神さまの永遠のご計画について知ることはできません。神さまに対して、無関心な者となり、神さまと同じ目線、同じ立場で、目的に向かって共に歩んで行くことはできないのです。

この神さまと共に歩む経験を通して、私たちはますます神さまのことを知ることができるようになるのです。そしてそれが、私たち11人の神さまのご計画を知ることの喜びとなり、また、そんな私たちを神さまが何より喜んでくださいます。知った気にならないで、どこまでも知ることに努めましょう。集会、日々のデボーション、聖書の通読を大切にして、神さまに聞き従ってまいりましょう

 2021年9月26日 週報より