2021年10月24日日曜日

 ふたりは一緒に 

「アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。」                               創世記 228節              

 「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか(アモス3:3)。」約束をした者同士は一緒に歩くのだと言っています。それが神さまのみこころです。

では、一緒に歩くとはどういうことでしょうか。信仰の父アブラハムの最大の試練は、ひとり子イサクを神さまの示される山で燔祭(全焼のいけにえ)として献げるというものでした。それが記されている創世記22章では、「ふたりは一緒に行った。」という表現が繰り返されています。この時神さまは、アブラハムとイサクの2人が、神さまのみ心を共有できるかをテストされています。イサクは、父の言葉と態度から、神さまが選ばれたいけにえが、自分であることを知り、縛られるままに、殺されそうになってもいっさい抵抗しませんでした。いのちをかけて、父アブラハムと信仰する神さまに、従順に従いました。2人は神さまのみ心を同じように知り、神さまに完全に委ねて一緒に歩いたのです。

イエスさまを主として受け入れた、私たち11人も一緒に歩む関係を望まれています。みことばから、神さまのみ心を知り、どんな理不尽な、予想外で大変な試練があっても、神さまを信頼して、 神さまに委ねて、イエスさまと共に歩むということです。そうすれば、私たちは、イエスさまとともに神さまのご計画を見ながら歩むことができるでしょう。そして、「何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく(ペテロ4:12)、」心平安に歩むことができます。イエスさまは、インマヌエル(神われらと共にいます)の主です。

 20211024日 週報より

2021年10月17日日曜日

 盲目の人の癒し 

「イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。」                                                マタイ2034

 盲人の人が癒された記事は、マタイ2029~34節だけではなく,マルコ1046~52節とルカ1835~43節でも取り上げています。そして、マタイではその盲人たちが「二人」であると記され、マルコでは「バルテマイ」であると記しており、ルカによる福音書では、「ある盲人」とあります。おそらく、この3つの記事は、バルテマイについての記事ではないかと推測します。いずれも、盲目の目が開けて、見えるようにと願っているのです。この目は実際の眼球の視力を癒して頂きたいと願っているのですが、私達には、「心の目」もまた開かれるように願っているようにも思われます。心の目とは、心眼とか、悟る心ともいうべき信仰的な悟りを意味する言葉に通じる意味ではないでしょうか。バルテマイにとって目が癒されるという事は、生きていくうえで決定的なハンデキャップが取り除けることに通じる素晴らしい出来事なのです。彼は恐らく目の不自由のゆえに、いわゆる正業につけず、人通りの多い宮の前で物乞いをするしか、生活の糧を得られなかったのでしょう。通りがかったイエスさまが「どうして欲しいのか」と言われた時、即、「この目が見えるようにしてください。」と叫ぶように申し上げた事でしょう。私達も同様に、自分一人ではどうにもならない問題を、どうしても解決しなければ、もう前には一歩も進められないような煮詰まってしまった状態の時には、「神さま。助けてください。力を与えてください。」と、叫ばずにはいられないとき、主は「どうしてほしいのですか」と応答下さるのです。 

20211017日 週報より

2021年10月10日日曜日

 つぐなってくださる神 

「わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。」                ヨエル書225節       

 ヨエル書218節~27節から2つのことを見ていきましょう。

1.  ねたむほどに愛してくださっている神さま。

神さまのねたみは、本来一対一の親密であるはずの関係が損なわれることによるものです。神さまは、神の民イスラエルに惜しみなくご自分の愛を注ぎたいと願っておられます。私たちも今、神の御子イエスさまから、ねたむほどに愛されています。イエスさまは、私たちの罪を聖めるために、十字架でいのちを捧げてくださいました。それだけではなくて、私たちのことを神さまの前にいつもとりなしてくださっています。日々、罪に汚れる私たちの足を、イエスさま自ら洗い聖めてくださっているのです。そこまでも、どこまでも私たち11人にねたむほどの愛を注いでくださっています。

2.  いなごが食った年を償ってくださる神さま

ここに登場する「いなご」は、神さまがイスラエルをさばくために用いる異邦の民(バビロン他)の大軍勢です。そして、悔い改めた民に対する神さまの祝福は、「大軍が食い尽くした年を、あなたがたに償う」というものです。しかしそれは、悔い改めて、神さまのもとにとどまる限りということです。私たちが神さまの導きに従おうとするときに、その選択が目に見えて、損に思えるということがよくあります。しかし、人の目には明らかな損であったとしても、必ず神さまが償ってくださいます。くやしくて、情けなくて涙しても、神さまは私たちの目から完全に涙をぬぐいとってくださるのです。そんな神さまを信頼し、神さまの喜ばれる選択をして信仰に歩みましょう。 

20211010日 週報より