2021年12月5日日曜日

 イスラエルを救ったギデオン

 ギデオンはまた主に言った、「わたしがもしあなたの前に恵みを得ていますならば、どうぞわたしと語るのがあなたであるというしるしを見せてください。」    士師記6章17

 イスラエルの民は神さまに悪を行ったので、7年間もミデアン人に攻められました。しかし、神さまは、ギデオンに「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(士師6:12)と語られたのです。ミデアン人を恐れて酒船の中で麦打ちをしていたギデオンに、神は声をおかけになられたのです。「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアン人の手からイスラエル人を救い出しなさい。私があなたを遣わすのではありませんか」(6:14)「イスラエル氏族のうちで最も小さく、また、父の家族の中で最も小さいものですのに」と尻込みしたギデオンでしたが、神さまの教えをすべて実行して、たった30人の精鋭を引き連れて、ミデアンに対峙しました。神さまの智慧を頂いたギデオンは、イスラエルを守り、敵に勝利することができたのです。用心深く細心の注意を払って、神さまのお声に従って行動するときに、主は忠実な者よよくやった。とその行動を祝し、勝利を与えてくださいます。ギデオンの交流を見ると、確かなお答えを頂くために数度の試みを実践しています。私達は、日々聖書を読み、折々に主に向かって祈りをささげ、「御心がこの身になりますように」と祈りながら日々を過ごしています。一日一日、一時一時、主の護りと祝福の中で歩みを進めています。何かあれば、すぐ、主よ!と叫び、助けを、導きを、を求めることができます。私達の背後に、いや私達の中に、主イエスさまが生き生きと生きていて下さるので、この平安が与えられているのです。「イエスをキリスト」私達の贖い主である主イエスキリストのご生涯とお働きを覚え、ますます身近な方々に、「イエスがキリスト」であられることを告白してまいりましょう。

 2021125日 週報より

2021年11月28日日曜日

 かたくななヨナへの愛

 「主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。」    ヨナ書4章4節

 1  ヨナのかたくなさ

ヨナは、ニネベの人々が、神さまに滅ぼされたほうが、イスラエルのためになると考えました。それがヨナの正義でした。しかし、自分の正義に固執し、神さまをかたくなに拒めば、神さまの祝福を受け取る大きな妨げとなります。

2  異邦人たちの素直さ

水夫たちは、ヨナの仕える神さまを心から恐れて、礼拝をささげます。また、ニネベの人たちは、町中の人々が、ただちに悔い改めました。彼らは神さまに素直に従ったのです。

3  素直な者にもかたくなな者にも等しく注がれる神さまの愛

神さまは素直に従った異邦人の水夫たち、またニネベの人たちを、大いに祝福されました。では、かたくななヨナには、何もされなかったのでしょうか。いいえ、神さまは、どちらにも分け隔てなく、大いなる愛を注いでくださいました。ヨナに対して、神さまは、自然の災害を通して、具体的な導きをもって、また、おことばを通して、さらに体験を通しても、気づきを与えようと導き続けておられたのです。

それは、私たち11人に対しても同じです。これこそ正しい、これが私のやり方とかたくなになりがちな私たちです。しかし、神さまは、あの手この手で気づきを与えようとされます。私たちの態度、心の状態、状況の変化に応じて、神さまは柔軟に対応し、導いてくださり、どこまでも追い求めてくださるお方です。かたくなな心を解いて神さまに素直な心で向き合いましょう。神さまが注がれた恵みは、その素直な心を満たし、私たちへの大いなる祝福となるのですから。

 20211128日 週報より

2021年11月21日日曜日

御子を信じる者

「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。」                      ヨハネ3章36節

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」(ヨハネ316節)という、聖書を代表する福音の言葉はどなたでもご存知であると思います。これはパリサイ人のニコデモが夜密かにイエスさまの所を訪ねた折に交わされたお言葉なのです。「新しく生まれなければ」と言われて、ニコデモは、「人は年を取ってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか」(3:4)と真剣にお尋ねになったのです。ここでの会話は、生身のからだと、霊的な比喩が混ざった会話になっているようですが、イエスさまは、信仰的な霊的な表現をなさったのです。「イエスをキリスト」と信じる霊的な心の受け止めを表されたのです。「信仰」によって、「イエスがキリスト(救い主)」であることを認めて、その事実を受け入れるのです。信じる心で、十字架にかかられて私達の罪からの贖いを完成して下さったイエスさまの「身代わりの死」を受け入れるのです。ニコデモが、「霊的」とか「信仰的に」とか言われている受け止め方なのです。「イエスさまの十字架の上での死」は「私達の罪のための贖い」という「身代わりの死」なのです。イエスをキリストと信じて、霊的に購われた生活が、今のクリスチャンたちの生活なのです。私達の基準は、常に、このイエスさまの生き方に基づくのです。

 20211121日 週報より