2025年4月27日日曜日

目をさましていなさい

聖書箇所 マルコによる福音書1328-37

目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。マルコによる福音書1333

1.世の終りの希望

イエスさまはいちじくの木のたとえで、世の終りにではなく、世の終りに来られる再臨のキリストに注目するようにと教えています。「順序だって、すべてが起ってしまうまでは世の終りは来ない。だからあわてないようにしなさい。神さまの深いご計画に信頼を寄せて、来ようとしている神さまの恵みに目を向けるようにしなさい」と言われています。

2.永遠と結びつく人生

私たちは、世の終りが来て、天地が崩れ去れば、私たちを支えるすべてが無くなると考えます。しかしそうではありません。神さまは約束されたとおりに、信じる私たちを滅びから救いへと引き上げて、永遠へとつながる道に置いてくださいます。そして永遠の御国に入るまで確実に導いてくださるのです。キリストの福音とは、私たちに永遠と結びついた人生が与えられることであって、この事実は何が起こっても決して失われることはありません。

3.目をさましている

目をさましているとは、霊の目を開いておくことです。しかし何か特別なことをしなければならないのではありません。神さまの戒めに従い歩めば良いのです。そしてそれは、神さまを愛し、礼拝をお献げし、兄弟姉妹や隣人を愛していくことです。このようにして霊の目をさましている者は、世の終りを恐れることはないのです。世の終りこそが、神さまの約束が果たされる恵みの時と捉えて、そこにある希望をいつでも見続けてまいりましょう。

2025427日 週報より 

2025年4月20日日曜日

復活されたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1932-34節、ヨハネ201-2節、19-21節、コリント1517節、20-22節他

もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。  コリント人への第一の手紙1517

1.イエスさまのよみがえり(復活)

聖書は、十字架上でのイエスさまの完全な死を記しています(ヨハネ19:32-34)。イエスさまは仮死状態で蘇生されたのではなく、完全に死なれた後、三日目に復活されたのです。弟子たちやお仕えしていた女性たちは、復活について事前にイエスさまから聞かされていました。そして実際に空になったお墓を目撃しました。しかし彼らもはじめはイエスさまの復活を理解出来ませんでした。

2.復活のイエスさまに会った弟子たち

この後、復活を信じられない弟子たちの所に、イエスさまが直接来られました。イエスさまの「安かれ」とのなつかしい声を聞いて、弟子たちはようやくイエスさまの復活を確信しました。そしてイエスさまの復活の証人として用いられていきます。

3.復活の意味

聖書は、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである(Ⅰコリント15:20)」と言います。初穂とは、作物の最初の収穫です。初穂が良ければ収穫も良いのです。イエス・キリストを信じる者は、このキリストの良い初穂(復活)に倣い、死んでも生きる者とされます。信じた私たちは、肉体が滅んだあとも霊において生き続けるのです。そして御国で相応しい体が与えられて、イエスさまとともに永遠に生きます。イエスさまの復活は、イエスさまを信じる者を死の恐怖から解放し、この世の勝利者とすることへの絶対的な裏付けなのです。

2025420日 週報より

十字架で死なれたイエスさま

聖書箇所 ヨハネ 1212-13節、ヨハネ1913-15節、イザヤ535-7節、イザヤ5311節他

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。ペテロ第一の手紙224

1.民の心変わり

エルサレムの人々はイエスさまを大歓迎しました。しかしわずか5日後、人々はイエスさまを「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と叫ぶのです。人々はローマ帝国の支配から解放してくださる強い救い主を求めていました。しかし、権力者たちの前にあまりに弱弱しいイエスさまの姿を見て、裏切られた気持ちが生じたのです。しかしこれもすべては神さまのご計画でした。

2.イザヤの預言

私たち人は神さまを無視して、おのおの自分勝手に生きてきました。これが罪ある人の歩みです。けれども、そんな私たちの罪だらけの生き方(不義)を神さまはイエスさまの上に置かれました(イザヤ53:6)。そしてイエスさまは私たちの罪が赦されるために自ら十字架に架かり、死んでくださいました(イザヤ53:11)。すべてはイザヤの預言のとおり、神さまのご計画に従ってなされたことでした。

3.十字架の意味

イエスさまがなされた人を罪から救う業が十字架です。それは自動的に人を罪から救うものではありません。まず十字架の事実を受け入れ、神さまを無視して歩んでいた自分の罪を認めます。そして悔いあらためます(世から神さまへの方向転換をします)。イエスさまの十字架が自分の罪の救いのためであったと信じて受け入れることによって、この救いが自分のものとなるのです。だれでも信じる者は救われます。


2025
413日 週報より