2025年8月24日日曜日

用いてくださる神

聖書箇所 マルコによる福音書1542-47

アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。マルコによる福音書1543

1.アリマタヤのヨセフ

アリマタヤ出身のヨセフは、イエスの弟子であることを隠していました。しかし彼は、イエスさまの十字架と共に太陽が隠れて真っ暗になったこと等を体験し、神さまの前になすべき自分の役割を明確にされます。ヨセフは自分に与えられた役割を自覚し、信仰者としての歩みを始めることができました。大胆にもイエスさまの遺体の引き取りを申し出て、それを埋葬したのです。

2.それぞれの役割

安息日の始まるタ方6時までに、ヨセフは埋葬を終える必要がありました。ここで助け手としてニコデモが与えられます。またマグダラのマリヤたちは、埋葬場所を確認していました。イエスさまの復活後、彼女たちは、空になった墓のことを弟子たちに告げる役割を果たします。神さまは私たち一人一人も神さまのご計画の中に置かれています。そこで大切な役割を果たすように導いておられます。

3.神さまの選び

神さまは、ヨセフに信仰を行動であらわすように導かれました。それを受けとめた彼は、イエスさまを埋葬するという、神さまのとても大切な働きに用いられます。誰でもよかったのではありません。神さまはそれぞれの役割に相応しい者として、百卒長やヨセフ、ニコデモ、マグダラのマリヤ等を選ばれ、用いられています。神さまはその栄光を現わされるために、私たちをも相応しい役割に選んでくださっています。私たちは、自分の思いではなく、あなたの御心のままにと神さまにお委ねして、用いられる者となりましょう。

2025824日 週報より

2025年8月17日日曜日

十字架~父なる神の苦しみ

聖書箇所 マルコによる福音書1533-41

イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。 マルコによる福音書1539

1.苦しまれた父

親子関係の断絶は、イエスさまだけでなく、父なる神さまにとっても深い悲しみでした。その思いが3時間の暗闇であらわされたのです。そこでイエスさまは「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれます。これは「神のあなたがそんなにも苦しまなければならないのにどうしてそこまでなされるのですか。あなたの人への愛とあわれみはそれほどまでに深いのですね」との思いなのです。

2.隔ての幕の消失

イエスさまが息を引き取られた時、神殿の聖所と至聖所を仕切る幕が真二つに裂けます。至聖所には神の存在を示す契約の箱が置かれていました。ここは年に1回、大祭司だけが入ることができました。しかしこの隔ての幕が引き裂かれたことは、誰でもイエスさまを通してはばかることなく、神さまの御前に出ることができるようになったことの証明でした。

3.霊で受けとめた百卒長

百卒長は「まことに、この人は神の子であった」と言います。この発言は彼の立場を危うくするものでした。それでも、彼はこの言葉を秘めておくことができませんでした。それは彼が十字架の一部始終を霊で受けとめていたからです。人は心の奥に霊が備えられています。この霊は、神さまの言葉に触れたり、霊的事実に直面したりすることで働きます。私たちも今日示されている父なる神さまの大きくて深い愛とあわれみを霊で受けとめていきましょう。

2025817日 週報より

2025年8月10日日曜日

肉の対応を誘うこの世

聖書箇所 マルコによる福音書1521-32

イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう。 マルコによる福音書1532

1.イエスさまの目線

兵士たちは、あざけりと虐待の限りを尽くし、イエスさまを処刑場へと引いていきます。ここでイエスさまが見ておられるのは、人々の愚かで醜い姿ではありません。人々の救いという父なる神さまのご計画だけを見つめておられました。こうしてイエスさまが十字架にかかることで、私たちが罪から救われる道が備えられたのです。

2.イエスさまへのののしり

「本当に神殿を三日で建てる力があるのなら今、十字架からおりてきて自分を救え」と通りがかりの者たちがののしっています。このののしりは、イエスさまが肉による対応をされ、十字架からおり、十字架による人々の救いを妨げるためでした。実際イエスさまは、自ら十字架からおりる力をお持ちでした。しかしイエスさまは、その力を見せつけるという肉の思いをやり過ごして、何もされませんでした。世からの挑発に十字架上でじっと耐えておられました。

3.続くイエスさまへの挑発

この後も執拗にイエスさまへのののしりは続きます。それでも イエスさまは一切、肉による応答はなされませんでした。ここで  もしイエスさまが十字架からおりていかれたら、彼らはイエスさまを信じたでしょうか。いいえ、彼らはこれまでイエスさまがされた奇跡と同様にこれも悪霊の仕業だと言ってごまかしたでしょう。この世は常に信仰者が肉の思いで呼応するように誘い、執拗に挑発してきます。信じて歩む私たちは、いつも聖霊を意識しながら世の挑発に乗らずに神さまの喜ばれる選択をしていく必要があるのです。

2025810日 週報より