2025年8月31日日曜日

見ずに信じて歩む

聖書箇所 マルコによる福音書161-8

イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。マルコによる福音書166

1.よみがえられたイエスさま

マグダラのマリヤたちがイエスさまのお墓に入ると、1人の若者が座っていました。そして「イエスはよみがえって、ここにはおられない」と言います。彼女たちは、復活のイエスさまを直接見なくても、よみがえられたことを信じて「見ないで信じる信仰」に立つように導かれていたのです。しかし彼女たちは驚き、恐れて、イエスさまがよみがえられたとは思いませんでした。

2.女性たちの不信仰

この3人の女性たちは、事前にイエスさまから、十字架と復活について聞かされていました。それにもかかわらず、復活の事実を受け入れられませんでした。それは彼女たちが、肉の思いや感情におおわれて、不信仰に陥っていたからです。信仰に歩む私たちもこの女性たちのように、いつでも不信仰に陥る怖さや危険があることを覚えておく必要があります。

3.つきまとう不信仰の思い

私たちは、空っぽのお墓を見て、「イエスはよみがえって、ここにはおられない」との声を聞くことはできません。聖書のお言葉をそのまま受け取って、イエスさまの復活を本気で信じるようにと導かれているのです。見ずともまた聞かずとも、信じることができている私たちは、大いに感謝いたしましょう。そして肉の思いや感情によって不信仰に陥らないように注意しましょう。そのために私たちは、状況に応じて示される神さまからのお言葉を信頼し、そのまま受け入れていく「見ずに信じる」歩みを続けていくことが大切です。


2025
831日 週報より

2025年8月24日日曜日

用いてくださる神

聖書箇所 マルコによる福音書1542-47

アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。マルコによる福音書1543

1.アリマタヤのヨセフ

アリマタヤ出身のヨセフは、イエスの弟子であることを隠していました。しかし彼は、イエスさまの十字架と共に太陽が隠れて真っ暗になったこと等を体験し、神さまの前になすべき自分の役割を明確にされます。ヨセフは自分に与えられた役割を自覚し、信仰者としての歩みを始めることができました。大胆にもイエスさまの遺体の引き取りを申し出て、それを埋葬したのです。

2.それぞれの役割

安息日の始まるタ方6時までに、ヨセフは埋葬を終える必要がありました。ここで助け手としてニコデモが与えられます。またマグダラのマリヤたちは、埋葬場所を確認していました。イエスさまの復活後、彼女たちは、空になった墓のことを弟子たちに告げる役割を果たします。神さまは私たち一人一人も神さまのご計画の中に置かれています。そこで大切な役割を果たすように導いておられます。

3.神さまの選び

神さまは、ヨセフに信仰を行動であらわすように導かれました。それを受けとめた彼は、イエスさまを埋葬するという、神さまのとても大切な働きに用いられます。誰でもよかったのではありません。神さまはそれぞれの役割に相応しい者として、百卒長やヨセフ、ニコデモ、マグダラのマリヤ等を選ばれ、用いられています。神さまはその栄光を現わされるために、私たちをも相応しい役割に選んでくださっています。私たちは、自分の思いではなく、あなたの御心のままにと神さまにお委ねして、用いられる者となりましょう。

2025824日 週報より

2025年8月17日日曜日

十字架~父なる神の苦しみ

聖書箇所 マルコによる福音書1533-41

イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。 マルコによる福音書1539

1.苦しまれた父

親子関係の断絶は、イエスさまだけでなく、父なる神さまにとっても深い悲しみでした。その思いが3時間の暗闇であらわされたのです。そこでイエスさまは「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれます。これは「神のあなたがそんなにも苦しまなければならないのにどうしてそこまでなされるのですか。あなたの人への愛とあわれみはそれほどまでに深いのですね」との思いなのです。

2.隔ての幕の消失

イエスさまが息を引き取られた時、神殿の聖所と至聖所を仕切る幕が真二つに裂けます。至聖所には神の存在を示す契約の箱が置かれていました。ここは年に1回、大祭司だけが入ることができました。しかしこの隔ての幕が引き裂かれたことは、誰でもイエスさまを通してはばかることなく、神さまの御前に出ることができるようになったことの証明でした。

3.霊で受けとめた百卒長

百卒長は「まことに、この人は神の子であった」と言います。この発言は彼の立場を危うくするものでした。それでも、彼はこの言葉を秘めておくことができませんでした。それは彼が十字架の一部始終を霊で受けとめていたからです。人は心の奥に霊が備えられています。この霊は、神さまの言葉に触れたり、霊的事実に直面したりすることで働きます。私たちも今日示されている父なる神さまの大きくて深い愛とあわれみを霊で受けとめていきましょう。

2025817日 週報より