2024年4月21日日曜日

悪霊を追い出された人の働き

聖書箇所 マルコによる福音書51-20

あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。        マルコによる福音書519

1.けがれた霊につかれた人

ゲラサびとの地についたイエスさまの前にけがれた霊につかれた人がやって来ました。この人は、正常な意識を持ちながらも悪霊に動かされるままになり、それを嘆き悲しむしかない状況でした。罪にとらわれている私たちも同じです。罪の奴隷となり、したい善を行えず、したくない悪を行って神さまに喜ばれないことを重ねているのです。この人は、罪にとらわれた私たちの姿そのものを示しています。

2.ゲラサの人々

この人を狂わせた多くの悪霊を、イエスさまはお言葉一つで従わせられました。しかしそのことで豚の大群が死んだのを見たゲラサの人々は、イエスさまによって豚が失われる経済的損失を恐れました。この世は常に正義よりも安定を求めます。イエスさまに従い正しくあろうとすれば、世からの反発に遭うのです。それでも私たちはイエスさまの喜ばれる選択をする信仰者でありたいと教えられます。

3.ゲラサの人々への証し

悪霊から解放されたこの人にイエスさまは、ゲラサの人々への宣教を託しました。マルコによる福音書の653節以降には、この男性によって地域の宣教が大きく前進した様子が描かれています。イエスさまに立ち去って欲しいと願ったゲラサの人々にイエスさまのことを伝える働きは、悪霊を追い出していただいたこの人にしかできないことでした。イエスさまは私たちが遣わされている場所で、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」を知らせ伝えていくことを願われています。

2024421日 週報より

2024年4月14日日曜日

危機的状況への対処

聖書箇所 マルコによる福音書435-41

そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。              マルコによる福音書438

1.おびえた弟子たち

激しい突風で舟が沈みそうになり、弟子たちは皆おびえました。それは、イエスさまが眠っておられたからです。「私たちが死んでもイエスさまは平気なのか」と弟子たちは思いました。またイエスさまでもこの嵐はどうにもできないと考えました。さらに舟に乗るように言われたイエスさまを責める気持ちがありました。そしてイエスさまを信じる信仰を働かせることができなくなり、おびえたのです。

2.イエスさまへの不満

問題は状況を恐れることではなく、恐れる状況にあって神さまに不満を持ち、文句を言おうとする心でした。不満がつのれば、イエスさまが守り最後は良しとしてくださると信じる心が働かなくなります。置かれた状況がいかに厳しくても「御手の中から引き離されることは絶対にない、イエスさまが最後まで責任をもって導いてくださる」と信じて信仰を働かせることができるかが問われています。

3.イエスさまとともに

危機的状況で信仰を働かせるには、イエスさまに完全にお委ねすることです。自分の無力さを覚える中で、「無に等しい私をただイエスさまが支えてくださっている」と感じ入るのです。そして「イエスさまが私のいのちを握ってくださっている」と確信し、イエスさまに信頼して一歩踏み出します。そうすれば共にいてくださるイエスさまが、すべてを一緒に背負って、いつの間にか乗り越えさせてくださいます。「イエスさま、信じます。無に等しい私ですからともに歩ませてください。」これが委ねて歩むことであり、信仰の働かせ方なのです。

2024414日 週報より 

2024年4月7日日曜日

祝福とは

聖書箇所 マルコによる福音書421-34

また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。                        マルコによる福音書421

1.「あかり」のたとえ

神のご支配(守りと導き)にある者は光の子です。光である神さまの愛・喜び・平安とともにある幸いを味わう者です。この幸いを隠すのではなく、証しする「あかり」となることが望まれています。それは神さまの偉大さ、愛の深さ、あわれみの大きさを示して、その素晴らしさや喜びを明らかにすることです。これが弟子としての役割です。

2.「はかり」のたとえ

この「はかり」は天秤ばかりです。一方のお皿で量った分量に応じて、もう一方の重さが決まります。私たちの神さまへの信頼度、つまり、み言葉への信頼の分量に応じて、私たちに釣り合うみ言葉の力が与えられるのです。少ないならば少なく、多ければ多く応じてくださるだけでなく、神さまはあわれみにより、見合う分以上に与えてくださるのです。しかし神さまを信頼できない者は、わずかな喜びも取り上げられてしまうことになるのです。

3.育つ種とからし種のたとえ

この二つのたとえは一つの事柄について語られています。私たちには、神さまのみ言葉が自分の中でどのように働き、成長するかはよく分かりません。しかし小さなからし種が大きな木になるように、私たちの中で驚くほどに成長したみ言葉の実となるというのです。

み言葉に信頼する者にみ言葉どおりに、さらにプラスされてその力が実現すること、これが神さまの祝福です。そして祝福によってその実は、小さなからし種が大きな木になるほどに大きくなります。そのことによって私たちは神さまを証しする「あかり」とされるのです。

202447日 週報より