2024年6月23日日曜日

あわれんでくださる神さま

聖書箇所 マルコによる福音書635-44

弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。                      マルコによる福音書637

1.訓練を生かせなかった弟子たち

弟子たちが伝道の働きを終えたすぐ後、イエスさまは人々に教えをされていました。夕暮れ時となり、人々を解散させて食事させようと提案する弟子たちにイエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われます。弟子たちは訓練としての働きの中で、神さまの力による人々への癒しを経験しました。イエスさまは弟子たちが自分たちで食物を与えられるように再び神さまの力に頼ることを期待されていました。しかし弟子たちはその経験を生かせませんでした。

2.あわれみにより満たされた人々

イエスさまは、飼う者のない羊のような人々を深くあわれまれました。今ようやく霊が養われ始めた人々のために、霊の満たしに加えて肉体の満たしも神さまが与えてくださることを目の前で実現されようとしていました。私たちもお言葉にかたく信頼して神さまに向かっているならば、神さまはあわれみによってこの世の必要をかならず満たしてくださいます。それがすぐに示されなくても神さまのあわれみを確信して歩むのが私たちの信仰だと教えられています。

3.祈りについて示されている私たち

イエスさまは弟子たちが自分たちで食物を与えられるように祈ることを期待されていました。そうであれば私たちも不可能を可能にされる神さまに何でも祈り求めていくことが正しいのでしょうか。それともそれは自分本位な不信仰な要求なのでしょうか。残念ながら私たちにはこの境界線が分かりません。そこで私たちは不可能に思えることであっても神さまが必要とお考えになるなら、こたえてくださると信じて祈ることが大切です。そしてあとは神さまの御心にお任せしてしまうのです。これが私たちの信仰の態度、願いの祈りの姿勢です。

2024623日週報より 

2024年6月16日日曜日

父親とは

聖書箇所 ルカによる福音書1511-24

立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。                                                      ルカによる福音書1518

1.理想の父親とは

放蕩し落ちぶれて帰って来た息子の帰宅を、父親は喜び、文句ひとつ言わず迎え入れます。もちろん父親は子どもを正しく教え導く必要があります。ですが父親は子どもの性格や持って生まれたものを変えることはできません。子どもを自分とは違う1人の人として受け入れて、子どもを思いやり、そして子どもが傷ついて帰って来たときには温かく迎え入れる父親像がここに示されています。

2.父親の役割とは

聖書は父親が額に汗して働き、家族を養うようにと言います。また子供を正しく教え導くのも大切な父親の役割です。さらに夫として妻の弱さを認めて愛し、また尊敬するようにとも言われています。そんな多くの役割を担うお父さんが頼れる基準、善悪の完全な物差しが聖書です。聖書に頼るならば、「あの時と今で言うことが違う」と子供たちをいらいらさせることもありません。また夫婦の関係にも必ず良い影響を与えます。

3.父なる神さまに立ち帰る

しかし、人はだれも聖書に完全には従えません。人は皆、罪があるからです。盗むとか人を傷つけるだけでなく人の愚かさ、弱さ、赦せない心、自己中心などもすべて罪です。今日の箇所では弟息子が、自分の罪を認めて父親のもとに帰ります。私たちも自分の罪を認めて、父なる神さまのもとに帰る必要があります。神さまは、私たち11人を今日見た父親のように抱きしめたいと願っておられます。それを邪魔しているのが罪です。この罪が赦されて父なる神さまのもとに帰る道はただ一つです。神さまの御子イエスさまを信じることです。

2024616日 週報より

2024年6月9日日曜日

まことの牧者イエス

聖書箇所 マルコによる福音書630-34

飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。                                                                                              マルコによる福音書634

1.神さまに用いられる幸い

弟子たちは人々に接しながら、悪霊を追い出し、病をいやし、神さまのみ言葉を伝えました。こうして自分を通して神さまが働かれる経験をしました。神さまは人を通して働かれます。「神さま、私を用いてください」と神さまの前に自分を差し出す者を神さまは用いてくださり、驚きと喜びに満たされる経験を与えてくださいます。

2.神さまの前に静まる大切さ

イエスさまは弟子たちの報告を聞かれて、弟子たちに休息とらせようとされます。霊を養いまた、体を休める時を与えるためでした。さらにイエスさまは、弟子たちの興奮状態を覚まそうとされました。興奮は人を高ぶらせ、サタンに足をすくわれやすくするのです。一旦静まり、経験したことや今置かれている状況の中で、神さまの自分への導きが何であるかを見つめるのです。そうして静まって神さまと向き合うことで、私たちの魂が探られ整えられていきます。

3.牧者のいない羊のような群衆

弟子たちとの静まる時を持とうとされたイエスさまでしたが、群衆が押し迫ってきました。イエスさまは、「飼う者のない羊のような有様」の彼らをあわれんで、教えを始められました。羊には良い牧者が必要です。彼らは自分で自分を養えないからです。民たちにも霊的な養いをする良い牧者が必要でした。しかし当時、神さまのお言葉で民たちを養う良い牧者となる指導者はいなかったのです。そこでイエスさまは良い牧者として、民の霊を養おうとされたのです。まことの牧者であるイエスさまは、羊である私たちをみ言葉で霊的に養い、私たちが神さまを求めるように導かれます。そうして私たちが神さまに用いられることを喜ぶことができるようにしてくださいます。

202469日 週報より