2024年8月25日日曜日

上にあるもの

聖書箇所 マルコによる福音書822-33

「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 

                                                                                      マルコによる福音書833

1.二回のいやし

盲人ははじめの癒しで、ぼんやり見えるようになりました。これは、真理をぼんやりながらも理解できている弟子たちの様子をあらわしていました。次の癒しで盲人は、はっきり見えるようになります。弟子たちも同じように、この後イエスさまの上からの力によって真理をはっきりと悟るようにされるのです。神さまは私たちにもそれぞれの信仰の状況に応じて導いてくださいます。上からの力で、更によく見えるようにしてくださるのです。

2.ペテロの信仰告白

イエスさまは、質問することによって弟子たちの信仰をさらに引き上げようとされます。ご自身の評判を尋ねたあとに「それではあなたがたはわたしを誰だといいますか」と鋭い質問をされました。この時ペテロは「神が約束された救い主で、神であるお方(つまりキリスト)です」と答えます。このペテロの信仰告白は、彼の知恵や判断ではなくて、神さまが語らせてくださったものでした(マタイ16:17)。

3.上にあるものを思う

イエスさまはこれから受けるべきことを弟子たちに話されました。イエスさまをいさめたペテロは、イエスさまから激しいおしかりの言葉を受けます。この時のペテロと同じように、私たちの口からも信仰による言葉もまた、信仰によらない言葉も出ます。このせめぎ合いから抜け出すには、聖霊に助けによって、いつも上にあるものを思うことです。今日の3つの話は一見バラバラに見えます。ですが私たちが上にあるものを思う時、神さまのご支配くださる領域が広がり、サタンが押し出されていくことを教えられているのです。

2024825日 週報より

2024年8月18日日曜日

パン種の影響

聖書箇所 マタイによる福音書811-21

そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。                 マルコによる福音書815

1.しるしを求めたパリサイ人

パリサイ人たちはイエスさまに天からのしるしを求めます。それは預言者エリヤが見せた、天からの火で供え物を焼きつくすようなしるしでした。しかしイエスさまは、彼らの貧しい信仰を嘆き、彼らとのこれ以上の議論を避けられました。パリサイ人たちは、目に見えない神さまを信じる信仰者でした。それでも目に見えるしるしを求めるのは、あまりにも貧しく程度の低い信仰だったからです。

2.悟れない弟子たち

弟子たちは、先の奇跡で余ったパンを忘れてきたことに心が向いていました。そして弟子たちどうしで、忘れたのは誰のせいかと責任のなすりつけ合いを始めます。そして「わたしが言おうとしていることを悟れないとは何となさけないことか」とイエスさまをがっかりさせます。私たちも心を自分の思いに占領されることなく、全ての出来事に御手をのばされている主を覚えましょう。そうして主の導きを悟ることのできる信仰者でありたいと教えられます。

3.パリサイ人とヘロデのパン種

イエスさまは、ここでパリサイ人のパン種とヘロデのパン種につて述べられました。心の奥にある自分の思いや考えがパリサイ人のパン種です。またこの世の事柄に引っ張られる思いや心がヘロデのパン種です。イエスさまはこれらのパン種に早く気づいて、これらを治め、神さまに思いを向けていくようにと、弟子たちに注意を促されたのでした。私たちも自分の中に働こうとするパン種の怖さを知り、上から与えられる信仰のみに目を向けて歩んで行くことが大切です。

2024818日 週報より

2024年8月11日日曜日

信仰の用い方

聖書箇所 マルコによる福音書81-10

弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。           マルコによる福音書84

1.繰り返された奇跡

弟子たちは前回の5,000人の奇跡で経験したことを、 今回の場面で生かせませんでした。それは弟子たちが5,000人の奇跡を非日常的なものとして受け取っていたからでした。人は日常的なことは覚えていても非日常的なことは忘れやすいのです。イエスさまは今度こそ、弟子たちの信仰の経験となるように4,000人の奇跡をなされました。

2.信仰経験の大切さ

私たちは出来事を通して、神さまの助けと導きをいただきながら力づけられていく経験をします。これが信仰の経験となります。これを妨げる原因は三つです。第一は、霊的事実の見過ごしです。出来事の中での神さまの働きが見えないことです。第二は、信仰経験とならないことです。神さまが何を教えておられるか悟れなければ信仰経験となりません。第三は、信仰経験が自分の内にとどまらないことです。経験が心()に刻まれないので、忘れて呼び起こせなくなります。

3.信仰を働かせるために

それでは私たちは、どうすればよいのでしょうか。まずは出来事を神さまとの関係性の中で受けとめていくことです。神さまが、助け、慰め、励ましてくださった多くのことを心にとどめて、これらが信仰経験となるように祈っていきます。そして日々の生活でこれらの信仰経験を引きだして、確認していきます(あの時神さまはあんな風に守ってくださった等)。こうして神さまがしてくださったことを上書きするのです。そうすれば、信仰の経験を霊に刻み、とどまった経験を必要に応じて引き出しながら信仰を働かせることができるのです。

2024811日 週報より