2026年1月25日日曜日

言葉でなく、力によって

聖書箇所 コリント人への第一の手紙414-21

神の国は言葉ではなく、力である。Ⅰコリント420

1.父パウロ

パウロは、コリントの人々を責めたり恥をかかせたりするためではなく、愛する子を思う父の心で語っていました。彼らの歪みを、神さまのまなざしの中で共に見つめ直し、彼らが正しい信仰へと向かって欲しいとの思いがありました。厳しい言葉の背後には、コリントの人たちを子として愛する父としてのパウロの深い愛と導きがありました。

2.父の役割

パウロが自分を父と語ったのは、パウロ自身に注目させるためではありません。コリントの人々が福音の土台をしっかり築き、人に目を向けた派閥争いから、神さまに目を向ける信仰の歩みへと移されるためでした。そのために愛をもって彼らを支え続ける彼らの父としての役割を果たすパウロの姿が記されています。

3.私に倣う者

「私に倣いなさい」との勧めは、パウロの生き方そのものから信仰を学んでほしいという招きです。パウロは福音を語るだけでなく、生活の中で神の力に生かされて歩む姿を示してきました。そしてパウロは彼に倣ったテモテをコリントに遣わします。テモテを見てあなたがたも神さまの力を受けてくださいと願うのです。

私たちも聖霊にお言葉の理解を助けていただき、神さまの力をいただきましょう。そして先人にまた周囲のすばらしい信仰者に倣い、福音を単に言葉としてではなく、神さまの力として受けとめて歩んでまいりましょう。

2026125日 週報より

2026年1月18日日曜日

自己満足の恐さ

聖書箇所 コリント人への第一の手紙46-13

あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。Ⅰコリント48

1.高ぶる人々

コリント教会の分派の原因は、自分の基準で人を裁く高ぶる心にありました。彼らは世の知恵や力を追い求めても真の幸いは得られないと悟り、信仰の歩みを始めたはずでした。しかし再び世の価値観に戻されてしまっていたのです。高ぶりは、心を神さまから遠ざけます。私たちは、罪だらけの不完全な者でした。それでもイエスさまによって、聖い神さまの前に立つことを赦されている者なのです。それを認めて、へりくだって歩むことが求められています。

2.すべては神の恵み

分派問題の根底には、自分で自分を高めようとする思いがありました。福音を理解して、神さまの力を受け取るために必要な知恵は、すべて神さまから与えられたものでした。しかし彼らはそれを忘れて、人の知恵を誇っていました。パウロは「受けたものを誇るな」と語ります。今ある恵みを、すべて神さまからのものとして受けとめられないと、人は高ぶってしまうのです。

3.自己満足による完成

コリントの人たちは、自分たちはもう十分に分かっていると自己満足し、神さまのお心を求めなくなりました。そして心がどんどん肉の思いに占領されてしまったのです。そうなれば、イエスさまの十字架による福音が伝えられても信仰は成長しません。十字架の犠牲が虚しいだけで終わってしまいます。信仰者は人の知恵で裁かず、神さまを信頼し、みこころを第一に求め続けることが大切なのです。

2026118日 週報より

2026年1月11日日曜日

キリストを仰ぐ教会

聖書箇所 コリント人への第一の手紙41-5

このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。Ⅰコリント41

1.キリストに仕える者

パウロは、コリントの人々の中に、自分を一派の指導者としてしか見ず、自分の言葉に耳を傾けない人たちがいることを知っていました。そこで彼は、伝道者とはどのような存在かを示します。まず伝道者とは、キリストに仕える者だと言います。つまり自分の考えで語る者ではなく、ただキリストの御心に従い語る者なのです。

2.神の奥義の管理者

また、伝道者は神の奥義の管理者です。それは、イエス・キリストの十字架によって示された福音をあずかり、正しく伝える務めです。この奥義は聖霊の導きによって知らされます。管理者にとって大切なのは、あずかった福音を自分の思いで足したり引いたりせずにそのまま伝える忠実さだと教えられています。

3.人ではなく主キリストを仰ぐ

私たちは伝道者を人としての話の上手下手等で評価するのではなく、神の奥義の管理者として見る必要があります。そして神さまのお言葉をまっすぐに語る伝道者を通してイエス・キリストを仰ぐように導かれています。聖霊は信じるすべての者の内に働き、御言葉を理解する力を与えてくださいます。教会全体が聖霊に満たされるとき、心が一つにされ、聖霊が群れを前進させるのです。その中で一人ひとりがキリストの似姿とされ、教会としてまた群れの一人ひとりも霊的成長をいただくのです。これが伝道者や牧師といった人を仰ぐ教会ではなくて主イエス・キリストを仰ぐ教会の姿です。

2026111日 週報より