2024年8月4日日曜日

世の束縛からの解放

聖書箇所 マルコによる福音書731-37

天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。マルコによる福音書734

1.イエスさまの口止め

イエスさまは癒しをされた後に「この事を誰にも言わないように」と言われました。癒しだけが強調されて伝わることのないためでした。しかし人々は、癒しの素晴らしさに感動して、言い広めてしまいます。自分の思いや考えで突き進んでしまうのではなくて、神さまのお心をいつも意識して歩むことの大切さが教えられています。

2.イエスさまのため息

「ため息をつき」は別の訳では「深く息をして」となっています。イエスさまはこの人の悩みや苦しみをご自身に負われました。そして信仰に導かれるようにとの思いが深い息となりあらわれたのでしょう。イエスさまは私たちの悩みや苦しみもご自身で負い、深い息をされて、神さまとの間で常にとりなしてくださっています。なんという幸い、なんという恵みなのでしょう。

3.イエスさまの「エパタ」の声

「エパタ」は「開けよ」という意味です。ここではイエスさまが、この人の耳や口を閉じた何者かに向かって言われたように感じられます。書かれていないのではっきりとは言えませんが、「彼の耳や口を閉ざすのはやめて早く開けるように」と言われたと考えられます。

実はこの世はサタンの支配下にあります。サタンは人々を世につなぎとめて、神さまに目を向けさせないようにしています。人は自分の力でこの束縛を解くことができません。しかしイエスさまは「エパタ(開けよ)」と言って、私たちをこの世の束縛から解放してくださいます。私たちはイエスさまを信じることで、神さまに目を向け、本来の人としての正しい歩みをする喜びをいただくことができるのです。

202484日 週報より

2024年7月28日日曜日

祈りがこたえられる信仰

聖書箇所:マルコによる福音書724-30

すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。                       マルコによる福音書728

1.スロ・フェニキヤの女性

イエスさまは、ツロ(ローマの属州シリヤ)に行かれます。反発してくるパリサイ人や願いばかりを要求してくる群衆から一旦退かれました。彼らはまだ福音を受け入れられる状況ではありませんでした。しかし神さまから遠いはずの異邦人の地で、イエスさまはすでに福音を受け入れることのできる信仰の民を見ることになります。それがスロ・フェニキヤの女性でした。

2.小犬だと認めた女性

イエスさまのたとえで「子供」はユダヤ人のこと、そして「小犬」は、この女性を含む異邦人でした。イエスさまは「子供のものを、小犬にやるのは良くない」と女性の求めを拒否されました。しかし彼女は、自分を小犬だと認め、「子供たちが落としたパンくずをいただけたらそれで十分です」と答えます。そんな彼女に神さまのあわれみが注がれて、彼女の願い通り娘から悪霊が追い出されました。

3.信仰を引き出された女性

この女性は、冷たく突き放したかのようなイエスさまのお言葉に反発せずに、それなら小犬としてパンくずをいただけるとの信仰に導かれました。彼女はただ神さまのあわれみにすがるしかない者であることを自覚し、イエスさまの導きを素直に受け入れました。この女性のようにイエスさまは私たちをあらゆる機会を通して導き続けてくださっています。導きが必ずしも自分の思い通りではなかったとしても、素直に従うことで祈りがこたえられる信仰に立たせていただけます。それは神さまのお心にそった祈りのできる信仰者の姿です。

2024728日 週報より

2024年7月21日日曜日

パリサイ人の思い違い

聖書箇所 マルコによる福音書714-23

これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。      マルコによる福音書723

1.人の本質

霊なる神さまに似せて造られた人の本質は霊です。しかしアダムとエバが罪を犯して以来、人の本質である霊は罪に支配されて、人は神さまに逆らい悪い方に傾くようになりました。パリサイ人たちは、罪に支配された状態でも律法の定めを守っていれば神さまの前にきよいとされて受け入れられると考えていました。しかし彼らはその出発点に問題があることに気づいていませんでした。

2.肉の人と霊の人

イエスさまは、「けがれた食べ物が人をけがすのではない。人はもとのきよい霊が罪の支配で肉体から来る欲におおわれた肉の人となり、悪い思いで満たされるのです。この悪い思いが人をけがすのです」と言われました。霊を回復させてくださるイエスさまの十字架の犠牲、そして聖霊の助けがなければ、私たちは決してもとのきよい霊の人に戻ることはできません。霊の本質に戻ることなしに、いくら汚れた物を避けてもただ滅びに捨て置かれる存在でしかないのです。

3.けがし合う人でなく

私たちは案外、自分の中から良いものも出てくると思っていないでしょうか。イエスさまは、人から出てくるものは、人をけがすものでしかないと言われます。肉の人は、神の前にけがれた者であるだけではなく、互いにけがし合って、益々神さまから遠ざかります。信仰者にも尚、肉体から来る欲は残ります。しかし、イエスさまと聖霊が本来の霊の人を回復し、保たれるのです。霊の人にされたこの恵みを喜ぶ選択をいたしましょう。み言葉をかたく信じ、イエスさまと聖霊にたよる者は世の勝利者として神さまの栄光を受ける者となります。

2024721日 週報より