2024年6月16日日曜日

父親とは

聖書箇所 ルカによる福音書1511-24

立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。                                                      ルカによる福音書1518

1.理想の父親とは

放蕩し落ちぶれて帰って来た息子の帰宅を、父親は喜び、文句ひとつ言わず迎え入れます。もちろん父親は子どもを正しく教え導く必要があります。ですが父親は子どもの性格や持って生まれたものを変えることはできません。子どもを自分とは違う1人の人として受け入れて、子どもを思いやり、そして子どもが傷ついて帰って来たときには温かく迎え入れる父親像がここに示されています。

2.父親の役割とは

聖書は父親が額に汗して働き、家族を養うようにと言います。また子供を正しく教え導くのも大切な父親の役割です。さらに夫として妻の弱さを認めて愛し、また尊敬するようにとも言われています。そんな多くの役割を担うお父さんが頼れる基準、善悪の完全な物差しが聖書です。聖書に頼るならば、「あの時と今で言うことが違う」と子供たちをいらいらさせることもありません。また夫婦の関係にも必ず良い影響を与えます。

3.父なる神さまに立ち帰る

しかし、人はだれも聖書に完全には従えません。人は皆、罪があるからです。盗むとか人を傷つけるだけでなく人の愚かさ、弱さ、赦せない心、自己中心などもすべて罪です。今日の箇所では弟息子が、自分の罪を認めて父親のもとに帰ります。私たちも自分の罪を認めて、父なる神さまのもとに帰る必要があります。神さまは、私たち11人を今日見た父親のように抱きしめたいと願っておられます。それを邪魔しているのが罪です。この罪が赦されて父なる神さまのもとに帰る道はただ一つです。神さまの御子イエスさまを信じることです。

2024616日 週報より

2024年6月9日日曜日

まことの牧者イエス

聖書箇所 マルコによる福音書630-34

飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。                                                                                              マルコによる福音書634

1.神さまに用いられる幸い

弟子たちは人々に接しながら、悪霊を追い出し、病をいやし、神さまのみ言葉を伝えました。こうして自分を通して神さまが働かれる経験をしました。神さまは人を通して働かれます。「神さま、私を用いてください」と神さまの前に自分を差し出す者を神さまは用いてくださり、驚きと喜びに満たされる経験を与えてくださいます。

2.神さまの前に静まる大切さ

イエスさまは弟子たちの報告を聞かれて、弟子たちに休息とらせようとされます。霊を養いまた、体を休める時を与えるためでした。さらにイエスさまは、弟子たちの興奮状態を覚まそうとされました。興奮は人を高ぶらせ、サタンに足をすくわれやすくするのです。一旦静まり、経験したことや今置かれている状況の中で、神さまの自分への導きが何であるかを見つめるのです。そうして静まって神さまと向き合うことで、私たちの魂が探られ整えられていきます。

3.牧者のいない羊のような群衆

弟子たちとの静まる時を持とうとされたイエスさまでしたが、群衆が押し迫ってきました。イエスさまは、「飼う者のない羊のような有様」の彼らをあわれんで、教えを始められました。羊には良い牧者が必要です。彼らは自分で自分を養えないからです。民たちにも霊的な養いをする良い牧者が必要でした。しかし当時、神さまのお言葉で民たちを養う良い牧者となる指導者はいなかったのです。そこでイエスさまは良い牧者として、民の霊を養おうとされたのです。まことの牧者であるイエスさまは、羊である私たちをみ言葉で霊的に養い、私たちが神さまを求めるように導かれます。そうして私たちが神さまに用いられることを喜ぶことができるようにしてくださいます。

202469日 週報より

2024年6月2日日曜日

キリストの前に立つ

聖書箇所 マルコによる福音書614-29

ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。                                                                     マルコによる福音書616

1.救い主を受け入れられない人々

多くの人々がイエスさまを預言者だとしていました。ナザレの人々同様にメシヤ(救い主)が大工から出るはずはないとの思い込みがあったのです。また彼らは、イエスさまを預言者としておきたかったのです。預言者であれば、自分たちの信仰の在り方や立場が守られると考えていました。メシヤを受け入れるということは、全てを新しく造り変えてくださいと自分自信を差し出すことになるからです。

2.救い主を受け入れられないヘロデ

ヘロデは、バブテスマのヨハネが、正しい人だと受けとめていました。しかし妻ヘロデヤの策略でヨハネを殺したので、彼は正しい人を殺した罪意識に縛られました。しかもイエスさまがメシヤであるという真理に全く気付けませんでした。ヘロデが特別ではありません。今でも多くの人がこの世に捕われて、永遠の滅びに向かっているという真理に気づかないのです。しかしイエスさまを信じて罪赦された私たちは、真理をみつめて世に流されることのない歩みができるのです。

3.救い主を受け入れる信仰

ユダヤの多くの人々は、メシヤではなく預言者を迎える信仰にとどまっていました。またヘロデにいたっては大切なことが全く見えていませんでした。私たちはどうでしょうか。イエスさまを信じていても自分の力で大丈夫だと思っている部分はないでしょうか。そうではなくて、「主よ、罪だらけでどうしようもない私を全部受け入れてください、全て委ねますから私のすべてを造り変えてください。あなたにはその力があります」とこのように信じて求め続けていくこと、これがメシヤなるイエス・キリストの前に立つ信仰者の姿なのです。

202462日 週報より